復活したイエス様が岸に立っておられたものの「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」とあります(21:4)。ここはマグダラのマリアが声を聞いて振り返り、「イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」ことを踏襲していると考えられます(20:14)。この表現はトビト記を思い起こさせてくれます(トビト5:4)。そこでもトビアは目の前に立っている者が神の使いであることは分かりませんでした。これは人間の理解を超える神的な存在はすぐに分からないということを表わしているのかも知れません。逆に言えば感覚的にすぐに分かるようであればそれは神的なものではないということです。トビト記では天使自らが名を明かしたことによりトビアは目の前にいる者が大天使ラファエルであることを知りました(トビト17:15)。ヨハネ福音書ではマグダラのマリアはイエス様に「マリア」と声を掛けられることによって気付きました(20:16参照)。しかしイエスが愛しておられた弟子はそこに立っている者がイエスであると自分で気付きました(21:7参照)。これらの違いを加筆者は表現しようとしたのかも知れません。
主日の福音