その後、マタイでは「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」と“憐れむ”と“癒す”がアオリスト形*1で表現されています(マタイ14:14)。マルコでは「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」と“憐れむ”と“始める”とがアオリスト形で表現されているものの(マルコ6:34)、癒しについては触れられていません。ルカでは「神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」と“語る”“癒す”が未完了形*2で表現されています(ルカ9:11b)。これらの動詞の時制の違いが何を意味しているのでしょうか。
ルカではこの話の中心が神の国にあると考えられます。神の国が実現した暁には病めることも飢えることもありません。そのことの証しが供食の業であるとすれば神の国は未だに完成していないことからルカでは未完了形で表現されているのでしょう。これに対してマタイとマルコでは供食の話それ自体に主眼が置かれており、話として完結したものであることからアオリスト形で表現されていると考えられます。
(*1)アオリスト形とは既に終わった過去の一時点、また継続は含まない時制のこと。
(*2)未完了形とは終わっていない時制のこと。