「善いサマリア人」のたとえそれ自体は非常に有名な話ですが、それが語られる前の状況を考えてみたいと思います。律法の専門家はイエス様の言葉を聞いて「しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った」とあります(10:29)。ここでの「正当化しようとして」という句は原語では“(不敬虔な者を義人に変えて)神の義を現らわす”という意味があります。であればイエス様はたとえを通じて神の義について教え諭そうとされたということです。つまりイエス様の「(誰が)隣人になったと思うか」という問いからその話の背景には神の義に対する背信が何らかのかたちで語られているということです(10:36)。確かに一読すれば隣人であるとは受動的な状況ではなく、能動的な態度によるものであることは明白です。この話が「隣人」という言葉によって挟まれている意味を考えるとサムエル記が思い起こされます(Ⅰサムエル15:28)。そこには、
サムエルは彼(サウル)に言い渡した。「今日、主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる」(Ⅰサムエル15:28)。
とあります。この節を踏まえて考えを進めていきましょう。