同じ言葉を聞いてもそれに自分なりの解釈を加えるのか、そのうえで神様の御心を推し量って解釈するのかではまったく異なります。つまりサウルも律法の専門家も与えられた御言葉や律法を自分に都合の良いように理解し、行動し、そして言葉を発したのです。
イエス様はサムエル記の「今日、主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる」を踏まえてたとえを語られたと思われます(Ⅰサムエル15:28b)。サウルは王としての役割を神様から取り上げられたように、神様の御旨を理解しようとしない律法の専門家もその地位を失うことになるのです。「隣人」と訳されるヘブライ語には“友”という意味があります。神様の御旨を考え、それに応じて行動することは自分の相手だけではなく、神様の友にもなることです。「あなたよりすぐれた隣人」とはそのことを知る者と言えるでしょう。こうしたことからイエス様は律法の専門家に「行って、あなたも同じようにしなさい」(10:37d)、即ち、神の友となりなさいと言われたのかも知れません。イエス様が「(だれが)隣人になったと思うか」と問われた理由をこのように考えられるのではないでしょうか(10:36)。
【サマリア人が蔑視(べっし)されていた理由】
登場人物であるサマリア人ですが、この話を理解するために彼等が蔑視(べっし)されていた理由を歴史的に極簡単に振り返ってみましょう。アッシリアによりイスラエルは征服されました(前722)。この後、アッシリアの政策によりサマリアの大多数はアッシリアに捕囚として移され、その代わりにアッシリアからは大勢の移民がサマリア入ってきました。これにより残留したイスラエル住民と異国人の上層階級とが混血となったことから、当時のイスラエルの人々はサマリア人をイスラエルの血を乱す民族であり、彼等により神の民であるイスラエルは永久に汚されてしまったとユダに住む者たちは考えたのです。このことがすべての始まりでした。
歴史的に見るとその後サマリア人はエルサレム教団から離脱し、シケムのゲリジム山に独自の聖所を建てたと言われています(前4~3頃)。彼等はモーセ五書をエルサレム教団から受け継ぎ、それら以外を正典としては認めませんでした。それはサマリアとエルサレムの両教団の内的異質化と対立を決定的なものとしたのです。