イエス様は「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と祈ることを教えられました(11:3)。これ以前の祈りはユダヤ教の伝統的なカディシュの祈りに則(のっと)っていると言えます。ここではそれまでの内容とはまったく異なり、食べ物のことが取り上げられています。これはシラ書にある、
(知恵は)英知のパンを食べ物として彼に与え、/知恵の水を飲み物として、彼に与える(シラ15:3)。
という言葉を思い起こさせてくれます。この節に基づいてイエス様が霊的なパンのことを話していると考えるのは性急です。イエス様の言葉は毎日、食べる物が欲しいという下世話な内容です。ではなぜイエス様はこのような祈りの言葉を弟子たちに教えたのでしょうか。
イエス様の時代、民衆は様々なかたちで税金、またその徴収にも苦しめられていたことが容易に想像できます。さらに周期的に必ず押し寄せてくる飢饉によって生命も危険に晒されていたことから無事にその日その日の食べるパンが欲しいという思いは切実な気持ちであったことでしょう。それゆえにカディシュという模範的な祈りに欠けていたことをイエス様がここに付け加えたのかも知れません。
(田川建三『イエスという男』、作品社、2004年、25頁、参照。)
《付録:カディシュの祈りと主の祈り》
イエス様は「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と祈ることを教えられました(11:3)。これ以前の祈りはユダヤ教の伝統的なカディシュの祈りに則(のっと)っていると言えます。ここではそれまでの内容とはまったく異なり、食べ物のことが取り上げられています。これはシラ書にある、
(知恵は)英知のパンを食べ物として彼に与え、/知恵の水を飲み物として、彼に与える(シラ15:3)。
という言葉を思い起こさせてくれます。この節に基づいてイエス様が霊的なパンのことを話していると考えるのは性急です。イエス様の言葉は毎日、食べる物が欲しいという下世話な内容です。ではなぜイエス様はこのような祈りの言葉を弟子たちに教えたのでしょうか。
イエス様の時代、民衆は様々なかたちで税金、またその徴収にも苦しめられていたことが容易に想像できます。さらに周期的に必ず押し寄せてくる飢饉によって生命も危険に晒されていたことから無事にその日その日の食べるパンが欲しいという思いは切実な気持ちであったことでしょう。それゆえにカディシュという模範的な祈りに欠けていたことをイエス様がここに付け加えたのかも知れません。
* 地名の「カディシュ」ではなく「聖なるものとなる」という意味)
両者はほぼ同じ内容であることが明らかです。であればイエスはカディシュの祈りを簡略化したものを教えたようにも思えます。重要なことは比較を通じてイエスが「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」以降を付け加えていることにあります。
(田川建三『イエスという男』、作品社、2004年、21頁、参照。)