主日の福音

【年間第二十一主日ルカ13:22-30】

今日の福音でイエス様は「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」ことになると言われました(ルカ13:28)。ここで「外に投げ出される」という表現はイザヤの預言を思い起こさせてくれます。そこには、

お前は墓の外に投げ捨てられる/忌むべきものとされた水子のように。剣で刺された者、殺された者に囲まれ/陰府の底まで下って行く/踏みつけられた死体のように(イザヤ14:19)。

とあります。この節は強国バビロニアの滅亡の預言であることから、神に敵対する「お前」、即ち、「バビロンの王」の行く末が語られているということです。これを踏まえるとイエス様が言われた「外に投げ出される」とは神様に反する者として扱われ、悲惨な死を迎えるということしょう。ここで「水子」と訳される言葉に目をかれますが、英語のアルファベットで表記するとNSRとなります。そしてこの下にヘブライ語のように母音記号を振って読むと「ナザレ」と読むこともできます。であればここにナザレの民を読み込むこともできる … かも知れません。

「忌むべきものとされた水子」とはバビロンの王のように神様を信じることなく権勢を誇るような者、また、イエス様に触れ合う機会があったとしても、無下に扱い、かかわりを拒むかのようにした一部のナザレの民を読み込めるかも知れません。そのような者たちの行く末が「そこ(外)で泣きわめいて歯ぎしりする」ことになるとイエス様は続けられます。この「泣きわめく」は詩編に見られる、

わたしはパンに代えて灰を食べ/飲み物には涙を混ぜた(詩編102:10)。

の「涙」を思い起こさせてくれます。また「歯ぎしり」も詩編にある、

もう立てないほど打ち砕かれ/心は呻き、うなり声をあげるだけです(詩編38:9)。

の「呻き」と訳されるに相当します。これらは神様を信じる者が敵の脅威にさらされる中にあって、また神様に反したことによる懲らしめを受ける中にあっての詩です。それぞれは神様に救いを求める嘆願なのですが、これらから分かることは神様を信じるがゆえに苦しむことがあるということです。であれば神様を信じない者が神様の裁きを受け、神の国の外で泣きわめいて歯ぎしりするようになるのは当然のことであると言えるでしょう。

イエス様は「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われました(ルカ13:24a)。この「戸口」と訳される言葉は原語には“扉”“門”“機会”という意味もあります。ポンペイの遺跡を考えると大きな門と小さな門の二つがありますが、「戸を閉めてしまってからでは」とイエス様は言うもののそれらには扉がありません(ルカ13:25)。であれば何かをたとえているということです。この二つの門はローマ時代には歩行者用と荷車用に分けられていたと考えられています。荷車には商売等に関する財源がたくさん乗せられていたことでしょう。このように考えると「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」という言葉が思い起こされます(ルカ12:15)。であればイエス様は狭い門をくぐる者のように持てるものだけをもって神の国に入ろうとしなさいということを言われたと考えられます。なぜならイエス様は金持ちの議員に「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と嘆かれていることから、このように考えることもあながち間違いではないでのしょうか(ルカ18:24)。

イエス様が語られるように天の国の扉が閉ざされたのなら、そこに入れない者は外に放り出されることになります。イエス様は「外に放り出される」という言葉をもってイザヤの預言を踏まえて放り出された者たちの悲惨さを語ろうとされたのでしょう。確かに神様を信じるがゆえに苦しむことがあるというのは現実です。しかし現実を神様に先立てる場合、神様を信じない者は当然のこと、信じているといえども神様の教えに従わない者は泣きわめいて歯ぎしりするような末路を辿たどることになるのです。イエス様が言われた「狭い戸口から入るように努めなさい」とは難しいことを要求しているのではありません。この世の現実を生きるための権威や財産、また食料ではなく、神様の御心と福音を携えて歩行者用の狭い門、即ち、信仰の道を歩み続けようとしなさいとイエス様は諭されているのではないでしょうか。その狭い門、戸口、そしてその機会は遺跡や原語から考えると私たちに常に開かれていることを忘れてはなりません。

機会があればネットで、是非、『ポンペイ遺跡のマリーナ門』や『ダマスカス門』の画像をご覧になってください。イエス様の言葉の意味が視覚的にも良く理解できることでしょう。

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