主日の福音

【年間第二十二主日ルカ14:1, 7-14】

今日の福音でイエス様は「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである」と言われました(ルカ14:12b)。またその理由として「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と話を結ばれました(ルカ14:14)。ここで繰り返される「お返し」という言葉に着目してみましょう。これらは箴言の言葉を思い起こさせてくれます。そこには、

弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる(箴言19:17)。

とありますが、後半の「その行いは必ず報いられる」を直訳すると“その報いは(神が)果たす”となります。前半も同じように直訳すると“貧しい者を憐れむ者は主につらなる人”となります。つまりお返しができない弱者を憐れみ、彼等を宴会に呼ぶ者が主につらなる人になるということでしょう。であれば婚宴や宴会は神の国にたとえられるのですから、そのような者が神様の救いに与るということをイエス様は語ろうとなされたのではないでしょうか。

神の国と「報い」という言葉を考えるとオバテヤ書が思い起こされます。そこには、

主の日は、すべての国に近づいている。お前がしたように、お前にもされる。お前の業は、お前の頭上に返る(オバテヤ1:15)。

とあります。ここで「お前の業」を直訳すると“お前の報い”となります。この節を理解するために古代イスラエル史を極簡単に振り返っておきましょう。引用した節は「エドムの傲慢と滅亡」と題された中にあります。引用した節には「お前がしたように、お前にもされる」とありますが、これが何を意味するのかを理解しなければなりません。バビロン捕囚時代にエサウの子孫であるエドム人がそれを好機としてユダ南部に侵入たのです(エゼキエル25:12-14;オバテヤ1:10-16参照)。それは兄弟が窮地に陥っているときに攻撃するという非常に卑劣ひれつな行為であり、神様にとって許しがたいことでもありました。このことに対して「主は報復の日を定められる/シオンにかかわる争いを正すための年を」とあるようにエドム人のシオンへの進撃や蹂躙じゅうりんは神様の怒りを買うには余りあるものだったのです(イザヤ34:8)。このことをもう少し見てみましょう。

エドム人がシオンへ侵入したことについてイザヤの預言では、

そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く(イザヤ35:5)
そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる(イザヤ35:6)。

とあります。ここで繰り返される「そのとき」とはエドム人を駆逐し、神の救いが成就したあかつきのことです。つまりエドムに下った神の審判の後、神の栄光が回復されることが預言されているのです。ちなみにヘブライ語で「エドム」とは「赤」を表わし、語幹は「血」を意味することから彼等の残忍さが表現されていると言えるでしょう。

体の不自由な者が癒され、自然が回復されるといった描写は創造時の本来あるべき姿となることを表象しています。これを踏まえるとイエス様は困難な状況にある者 … 貧しい者たち、卑しいとされた者たち、寄るのない者たち、即ち、弱者に憐れみをかけない者には同じような苦しみが報いとして及ぶということを言われていると考えられます。そして苦しみがあがなわれた者たちは神の国で開かれる婚宴に招かれるということを言わんとされたのではないでしょうか。

イエス様は福音の中で神の国を婚宴や宴会にたとえられます。その席に招かれる者は箴言にあるように「弱者を憐れむ人」です(箴言19:17a)。「弱者」とは原語では“貧しい”“卑しい”、そして“寄る辺のない”を意味します。また、そのような者を憐れむ者は「主に貸す人」であるとされています(同上)。「貸す」は原語で“借りる”“貸す”といった意味の他、“~に愛着する”“~に連なる”という意味もあります。つまり神の国に招かれるということは神様に連なっているということでもあるのです。

イエス様によれば弱者に憐れみをかける者が受ける報い、即ち、「その行いは必ず報いられる」とは神の国に招かれることであると言えるでしょう(箴言19:17b)。その時にはイザヤの預言を踏まえれば身体的な瑕疵かし*は回復され、自然までもが豊かになるのです(イザヤ35:5-6)。これが神の国に招かれた者の救いであり、神様の祝福であると言えるでしょう。この神の国に招かれるための教訓をイエス様はたとえを通じて諭そうとされたのではないでしょうか。

* 「瑕疵」とは法律用語であり、通常なら想定し得ることが欠如していることを意味する。しかしここでは一般的に“きず”“障害”といった完全性を欠いている状態という意味で使った。

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