マタイとルカを比べるとマタイでは弟子の条件として十字架を「担ってわたしに従わない者」とありますが(マタイ10:38)、ルカではそれを「背負ってついて来る者」となっています(ルカ14:27)。ルカでの「背負って」は馴染みのあるイザヤの預言の言葉が思い浮かびます。そこには、
彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった(イザヤ63:9)。
とあります。ここでの「担って」がそれにあたります。「彼ら」とはエドムの脅威に晒されるユダの民のことです。ヘブライ語の「エドム」には「赤」という意味があります。またこの単語の語幹は「血」を意味します。捕囚時代に彼等はユダ南部に侵入しました(エゼキエル25:12-14;オバテヤ1:10-16参照)。このことに対して「主は報復の日を定められる/シオンにかかわる争いを正すための年を」とあるようにエドム人のシオンへの進撃や蹂躙は神様の怒りを買うには余りあるものだったのです(イザヤ34:8)。このことが今日の話にどのように関係するのでしょうか。
ルカではイザヤの預言を踏まえ「わたしの弟子ではありえない」という結びの言葉があると考えられます(ルカ14:33)。つまり血を彷彿されるエドム人の侵攻によってユダの民が苦しめられたように、弟子となるのであれば血を流さんばかりの苦難を受けることになるという意味合いが込められていると思われるのです。それはその苦難を通じて神様の愛と憐れみ、また贖いを経験し、さらにそれを現わすようになれるということです。つまりイエス様と同じく弟子であるがゆえに自分たちも命をかけることになるということであると言えるでしょう。この「弟子」という言葉を考えるとやはりイザヤの預言が思い起こされます。そこには、
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる(イザヤ50:4)。
とあります。この節は「主の僕の忍耐」と題された中にあり、この忍耐とはまさにイザヤの預言の53章にも見られる有名な苦難の僕の忍耐であるとも言えます。しかし弟子たちはそれに準じた覚悟が求められていることにこの時点では気付かなかったことでしょう。
ルカでの「(ついて)来る」と訳された言葉ですが(ルカ14:27)、原語には“生じる”といった意味があります。であればイエス様の弟子となることはイエス様に従う新しい生き方が始まることであると言えるでしょう(ルカ5:11, 28; 18:28)。
「弟子」という言葉は歴代誌を思い起こさせてくれます。そこには、
彼らは年少者も年長者も、熟練した者も初心者も区別なく、くじによって務めの順番を決めた(Ⅰ歴代誌25:8)。
とあります。ここで「初心者」と訳された言葉がそれにあたります。また「彼ら」とは選ばれたレビ人のことです。レビ人についてはヤハウェ祭儀やそれに関係する音楽の奉仕も担っていたと考えられています。その役割は「くじによって務めの順番を決めた」とあります。聖書を通じてくじを引くことは神の意志を知るために行われました。ということはこの節を踏まえればイエス様について行くか行かないか、即ち、弟子になれるかなれないかはその人の力量ではなく、神様の選びでもあるということかも知れません。つまり自分の力だけではなく神様の助けもイエス様の弟子として生きるためには必要であるということではないでしょうか。
今日の福音でイエス様は弟子の条件として「十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と言われました(ルカ14:27)。十字架を背負うとは単に重責を負う、苦難を背負うといった譬えではありません。御受難が表象するように十字架は処刑道具であり、死を目的として刑場までそれを担いで歩くものです。その死は民を贖う苦難の僕のみが負えるものです。それゆえに誰もが為し得ることではないことからイエス様の弟子になることは神様の選びによるものであるとも言えるでしょう。であれば自分を選ばれた神様を信じることによってのみ自分が選ばれたことを納得できるのかも知れません。またその理解も自分が福音ゆえに死を迎える時にのみ得られるものかも知れません。であれば現実を通じて自分を神様に先立てるのであれば、その納得も理解も決して得られないでしょう。イエス様が歩まれた道、即ち、神の国を宣べ伝える生き方とは単なる宣教ではなく、イエス様のように行く末を見据えて主の僕として生きることでもあります。このようなことをイエス様はイザヤの預言を踏まえ、短い言葉で語られたのではないでしょうか。