今日の福音でイエス様は「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と言われました(17:10)。まずこの「命じられた」という言葉は申命記を思い起こさせてくれます。そこには、
我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける(申命記6:25)。
とありますが、ここで「注意する」と訳された言葉がそれにあたります。また「我々は報いを受ける」を直訳すると“私たちの正義・救いとなるであろう”となります。つまり神様が命じられることを注意深く守るのであれば、それが自分たちの正しさともなり、それゆえに正義となり、救いにもなるということです。その反対に命じられることを守らないのであれば呪いが降りかかることになります。実に同じく申命記には、
しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう(申命記28:15)。
とあるのです。
次に「しなければならないこと」と訳された言葉を考えると同じく申命記が思い起こされます。そこには、
わたしはそのとき、これらすべてのことをあなたたちのなすべきこととして命じた(申命記1:18)。
とありますが、「なすべきこと」と訳されたのがそれにあたります。これは「役職者の任命」と小見出しが付けられた一連の節の結びにあたります(申命記1:9-18)。ここでの「役職書」とは民の「重荷、もめ事、争い」を正しく裁く者、即ち、裁判を担う者を意味します(申命記1:12)。その条件となるのが「賢明で思慮深く、経験に富む」ことです(申命記1:13)。であればその裁きは神様の御旨にかなうかたちで行われなければなりません。この神様の御旨にかなうことが「しなければならないこと」であり(17:10)。「なすべきこととして命じ(られ)た」ことなのです(申命記1:18)。であればイエス様が語られる「畑を耕すか羊を飼うかする僕」とは神様に仕える僕であり(17:7)、神の国の実現に向けて働く役職者でもあります。そしてその選任は神様によるものです(申命記1:15参照)。それゆえに神様の御旨に従って忠実にその責任を果たさなければならないのです。
使徒たちはイエス様に「わたしどもの信仰を増してください」と訴えました(17:5)。それを受けて「主は言われた」と説明がなされています(17:6a)。このことから「(イスラエルよ)聞け、(イスラエルよ)」から始まるシェマの祈りが思い起こされます(申命記5:1; 6:4; 9:1; 20:3; 32:1)。つまりイエス様は御自分の教えに先立つ先祖伝来の神様の教えに従っているか否かを使徒たちに自問させようとしたと考えられます。神様を信じるユダヤ人として守るべきことをしたところで、それは「しなければならないことをした」だけであり、「取るに足りない僕」に過ぎません。使徒たちの「信仰を増してください」という求めにイエス様は幾分、呆れたかも知れません。イエス様からすれば彼等は「増して」とお願いするほどの信仰を持ち合わせていないように思えたのではないでしょうか。それゆえにイエス様は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と言われたのではないかと思われます(17:6b)。これはある種の痛烈な皮肉であったのかも知れません。
イエス様は「この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と言われましたが(17:6)、「根を下ろす」の「下ろす」を考えると詩編が思い起こされます。そこには、
神に従う人はなつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます(詩編92:13)。
主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります(詩編92:14)。
とあります。ここでの「植えられ」がそれにあたります。そもそも植物が海底に植えられることなど決してありません。であればこれを踏まえて使徒たちの信仰はまだまだ神に従う者として値しないことから、主の家に植えられることもなければ神の庭で茂ることもないということをイエス様は語られたのかも知れません。
使徒たちは信仰を増して欲しいと願いましたが、この言葉を考えると同じように詩編が思い起こされます(17:5)。そこには、
わたしは常に待ち望み/繰り返し、あなたを賛美します。
とあります。ここで「繰り返し」と訳された言葉がそれにあたります。この詩に表れるように神様に向けて祈りが幾度となく繰り返されることにより私たちの信仰は深まっていくのではないでしょうか。