「やもめと裁判官」のたとえを話し終えたイエス様は「神は速やかに裁いてくださる」と言われました(18:8a)。確かにやもめの訴えをなかなか取り上げないようとしない裁判官と神様との違いを語っていることは明らかです。イエス様が語る「裁いてくださる」とやもめの「相手を裁いて、わたしを守ってください」の「裁いて」は(18:3)、原語では同じ意味合いの動詞と名詞で表現されているものの、名詞には“報復”という意味合いがあります。この言葉はイザヤの預言を思い起こさせてくれます。そこには、
わたしが心に定めた報復の日/わたしの贖いの年が来たので(イザヤ63:4)
わたしは見回したが、助ける者はなく/驚くほど、支える者はいなかった。
わたしの救いはわたしの腕により/わたしを支えたのはわたしの憤りだ(イザヤ63:5)。
とあります。これを踏まえるとイエス様が語られた譬は民が贖われる時、即ち、神様が定められた終末は人間の理解を越えて速やかにやって来るということが語られていると考えられます。しかしその時は神様を落胆させるだけではなく、憤りを感じさせる時でもあるのです。次回はこのことに着目してみましょう。
上に引用した節を含む章の始まりは、
「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは。その装いは威光に輝き/勢い余って身を倒しているのは。」「わたしは勝利を告げ/大いなる救いをもたらすもの」(イザヤ63:1)
です。エドムとはパレスチナの南南東、死海の南からアカバ湾に至る地域を指します。ヘブライ語の「エドム」とは「赤」という意味です。この単語の語幹は「血」を意味します。ヘブライ語の「ボツラ」とは「切り倒す/要塞化する」を意味する“バーツァル”、また「(ぶどうを)摘む」を意味する“アラ”を語源としているとも言われます。こうしたことから赤を意味する地名を踏まえ、戦いにより流される血や酒舟を踏んだ時のように跳ね返りによる赤色が織り込まれていると考えられます。であればエドムから来る救い主とは返り血すら気に留めずに敵対する者をぶどうのように踏みつけ、打ち砕く者であるということです。これを踏まえると敵対する者たちを蹴散らし、勝利を告げ、民を救うためにすぐに立ち上がる者、即ち、報復を果たす者こそが神様であるということです。この「報復」という言葉はまさに神様と不正な者に対する“裁き”でもあるのではないでしょうか。
「やもめと裁判官」のたとえを話し終えたイエス様は続いて、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と言われました(18:8b)。この嘆きとも思えるイエス様の言葉は詩編を思い起こさせてくれます。そこには、
主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました(詩編12:2)。
とあります。おそらくイエス様はこの詩編を踏まえて語られたのでしょう。しかしイエス様の落胆や不安はそのままでは終わりません。イエス様が口にしなかったこれに続く詩編にこそイエス様の真意が隠されていると考えられます。福音記者ルカは読者がそれを読み解くことを期待して敢えて書かなかったかも知れません。そこには、
主は言われます。「虐げに苦しむ者と/呻いている貧しい者のために/今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう」(詩編12:6)。
とあります。主なる神様は虐げられた弱く貧しい者を救うために今、立ち上がってくださるのです。信仰がこの地上から潰えたかのように思える時代にあっても神様は取り計らってくださるということを言葉によらずに訴えようとしていると思われるのです。