主日の福音

2025年10月26日 【年間第三十主日ルカ18:9-14】

今日の福音でイエス様は「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とたとえ話を結ばれました(18:14b)。実に「客と招待する者への教訓」の中でもまったく同じことをイエス様は語られています(14:11〈14:7-14〉)。この教訓も今日のたとえもルカ福音書にしか見られません。ということは繰り返されるこの言葉に福音記者ルカは大きな意味を込めているということです。非常に内容が濃いことから今回は「へりくだる者は高められる」のみに着目してみたいと思います。ここで対比されている「高ぶる」と「低くする」が原語で同時に使われている箇所はイザヤの預言に見られます。そこには、

高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる(イザヤ57:15)。

とありますが、ここで「高く」「へりくだる」と訳された言葉がそれらにあたります。この節はバビロン捕囚からの解放後のことが語られています。これがどのように関係するのかを考えてみましょう。

確かにバビロン捕囚からの解放は大きな喜びではありましたが、彼らが故郷に戻り、目にしたものは荒れ果てた街並みと信仰の頽廃でした*。イエス様が真に言わんとされたことはファリサイ派の人と徴税人との比較だけではなく、先程、引用したイザヤの次の節にあると考えられます。そこには、

わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が(イザヤ57:16)。

とあります。ここにこそイエス様の「へりくだる者は高められる」という言葉の真意があると言えるでしょう。それはすべてが荒れすさんだ当時にあって打ち砕かれ、抑圧されている者にこそ神様は命を与えられるいうことです。神様はそのような追いやられた人の霊と共におられるのですから、神様が高く聖なる所に住まわれるようにそのような者も神様によって高められることになるのです。たとえ罪人としてさげすまれていようとも神様はその罪をいつまでも責め続けません。まして怒りを燃やし続けられることもありません。なぜなら罪人であっても人間は神の被造物だからです。もしかしたらイエス様の目は当時のユダヤ人社会がバビロン捕囚後のユダと同じような有り様に映ったのかも知れません。

*)この悲惨な実情に際して預言者ゼカリヤは帰還した民がエルサレム神殿を再建することを激励した。しかしユダの実情は物理的にも信仰的にもその意欲を削いでしまうのには十分であった。そこで預言者ハガイはユダの総督でありダビデ家の末裔でもあるゼルバベルに神殿再建の希望を託したのである(ハガイ1:1-12)。

 

イエス様の御言葉、即ち、福音は字面じづらから読むのではなく聖書的に考えなければなりません。往々にして現代の価値観から話の内容を理解しようとすることは福音が書かれた時代背景やユダヤ人の文化を無視することと同じこともあります。確かにイエス様は高ぶる者とへりくだる者が逆転するといったことを語られています。「へりくだる者」とはイザヤの預言を踏まえれば罪人としてさげすまれる者や心身共に打ち砕かれたかのような者であると言えるでしょう。このような者たちも神様の被造物であることに変わりません。だからこそ神様は彼等がどのような状況におかれていようとも共におられ、憐れみと赦しをもってご自分の命を与えてくださるのです。彼等は神様から見捨てられた者ではありません。当時、考えられていたように現実の有様が神様からの祝福如何いかんを意味しているわけではないのです。神様は罪を責め続け、怒りを燃やし続けることはありません。被造物である人間は神様の救いに向けて存在しているのです。こうしたことが神様によって「高められる」と表現されているのではないでしょうか。そしてこの言葉に福音記者ルカが伝えようとしたことが込められているように思えます。

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