今日の福音はノアの洪水の話しや二者のうち一者のみが助かるといった内容に着目されるものです。確かにイエス様は「洪水になる前は、…」とか(24:37)、「一人は連れて行かれ」「もう一人は残される」という話を展開しています(24:40, 41)。多少、怖くなるような話ですが、これらのことはイエス様が語ろうとされたことの具体的な例であり、イエス様が言わんとされることはたった一言に集約されています。それが結論としての「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」であると言えます(24:42)。それは終末の到来を前提とした言葉であると言えます。
ここで“目を覚ます”と訳された言葉ですが、原語には“見張っている”“油断なく警戒している”という意味もあります。つまり民の多くが“これから先にも聖書に書いてあるような出来事は起きないであろうと高を括っているその災い”が生じるということをイエス様は語られているのです。この「目を覚ましていなさい」はダニエルの預言を思い起こさせてくれます。
ダニエルの預言には、
主はその悪を見張っておられ、それをわたしたちの上に下されました。わたしたちの主なる神のなさることはすべて正しく、それに対して、わたしたちは御声に聞き従いませんでした(ダニエル9:14)。
とあります。ここに見られるように主なる神様は民の悪を「見張っておられ」るのです。そして「モーセの律法に記されているこの恐ろしい災難」を降りかけられたのです(ダニエル9:13a)。イエス様はこのことを語られようとされたのかも知れません。
この節の前にも「目覚める」という言葉が用いられ、
モーセの律法に記されているこの恐ろしい災難は、紛れもなくわたしたちを襲いました。それでもなお、わたしたちは罪を離れて主なる神の怒りをなだめることをせず、またあなたのまことに目覚めることもできませんでした(ダニエル9:13)。
とあります。ここでの「目覚める」は前回とは異なり、原語では“思慮深い”という意味で使われていることから、当時の民がモーセの律法をあまりにも軽視していたことが窺えます。だからこそイエス様は物事が起こるまで人は何も気付かないということを語られたのではないでしょうか(マタイ24:39a参照)。
「目を覚ます」という言葉は別の観点から考えると知恵の書が思い起こされます。そこには、
知恵に思いをはせることは、最も賢いこと、/知恵を思って目を覚ましていれば、/心配もすぐに消える(知恵6:15)。
とあります。ここでの“目を覚ます”はイエス様が使われた言葉とは異なりますが*、原語での意味合いはほぼ同じです。この節は「知恵は輝かしく、朽ちることがない。知恵を愛する人には進んで自分を現し、/探す人には自分を示す。求める人には自分の方から姿を見せる」から始まります(知恵6:12-13)。であれば自分の身の回りが神様のはからいに満ちていることを知恵、即ち、イエス様と共に目覚めるのなら、神様やイエス様の方からご自身を何らかのかたちで表わしてくださるというこです。であればたとえ不安が起きたとしてもすぐに消え去ることでしょう。
イエス様は「目を覚ましていなさい」と言われました。それはいつ終末が到来するか分からないといった不安だけを言っているだけではありません。「あなたがたも用意していなさい」とは、終末に向けて神様を思い続けるのならそこに不安はないということも同時に語っているのではないでしょうか。
* ἀγρυπνέω 目をさましている, to lie awake without sleeping, to remain watchful and attentive(T.Muraoka “A GREEK-ENGLISH LEXICON of the SEPTUANGINT,Peeters,2009”)