洗礼者ヨハネは「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と強い調子で語られたでしょう(3:10)。なぜなら聖書を踏まえること必然的にこのように考えられるのです。ヨハネが使われた“実”“火”“投げ込む”という言葉には特徴があります。これらから「ぶどうの木」が連想されます。ぶどうの木とは実を結ばなかったら「器物を掛ける釘」にすらなり得ない(エゼキエル15:3)、まったく使い道がない物です。それでも何らかの利用方法を求めて火で加工してみたとしてもまったく使い物になりません(エゼキエル15:4-5)。こうしたぶどうの木の例をもってヨハネは神様と繋がらず、実を結ばない「エルサレムの住民を火に投げ入れる」と言われたと考えられます(エゼキエル15:6)。
これ以外でも“(火に)投げ入れる(込む)”という表現は異教がらみで使われます。直ぐに思い起こされるのが出エジプト記で装飾具を民から集めて金の雄牛の像を造り、「すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った」という件です(出エジプト32:4)。
偶像礼拝を禁じられている民が偶像を造ったとなれば、モーセが黙っているわけはありません。そこで問い詰めるモーセに対して、アロンは以下のような言い訳をします。
わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです(出エジプト32:24)。
字面から考えてもまったくのデタラメであることがわかります。しかし民から集めた金を火に投げ入れることによって忌むべき偶像が出来上がったということは事実です。ここで「火に投げ入れる」は先程引用したエゼキエルでの「わたしに差し出しました」の「差し出した」と同じ動詞が使われています。出エジプト記では同じ動詞の重複を避け、「火に投げ入れる」を意味する別の動詞を使ったのかも知れません。こうしたことを踏まえると洗礼者ヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人々に“お前たちは偶像を造る者、またはそのような輩に協力するかのような連中だ”、また“そんなお前たちが真の神様を通じた実りをもらすことができるわけがない”と厳しく責めているとも言えるでしょう。
また列王記には、
その神々を火に投げ込みましたが、それらは神ではなく、木や石であって、人間が手で造ったものにすぎません。彼らはこれを滅ぼしてしまいました(列王記下19:18)。
とあります。これはユダの王ヒゼキヤの時代の話です。彼は父祖ダビデに倣った宗教改革を行ったとも言えます。アッシリアは臣下として服従する国家には彼等の国家聖所でアシェルに捧げるアッシリアの国家礼拝の執行を義務化しました。その過程で引用したようにそれぞれの国の神々の像や聖所もまた破壊されてしまったのです。こうした流れにヒゼキヤは反旗を翻したのです。そのためヒゼキヤ王は神様に救いを求め、「地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください」と祈ったのです(列王記下19:19)。
その後、アッシリアの王は攻め上がり、「ユダの砦の町をことごとく占領し(まし)た」(列王記下18:13)。これを踏まえるとヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人々に“お前たちは異国のアッシリア王のように偶像どころか真の我々の神をも破滅させようとしている!”と叱責しているとも考えられます。
アッシリアの神であるアシェルが国家聖所に祀られていることはユダヤ人にとって耐え難かったに違いありません。ヒゼキヤのことについては列王記に「彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い、聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた」と書き記されています(列王記下18:3-4b)。
洗礼者ヨハネはおそらく非常に強い調子でファリサイ派やサドカイ派の人々を糾弾したことでしょう。それは彼等らが神の怒りを逃れるためだけに洗礼を受けにきたことを見抜いていたからです。だからこそ「蝮の子ら*よ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と言ったのでしょう(3:7b-8)。神に仕える聖職者でありながらその実態はあるべき姿を等閑にした異国の神の信じるかのような者たちであったからこそ「蝮の子らよ」と呼びかけたと思われます。彼等は毒蛇のように徒に自己の存在を誇示するかのような輩だったかも知れません。そればかりではなく民衆からも嫌悪されていたことでしょう。
*)聖書の中で「まむし」と訳されるヘブライ語は多く、「毒蛇」と訳される場合もある。原語からは蛇の出す音を表していると言われている。ということは「毒蛇」が発する威嚇音が特徴的で不気味なものであったことが想像される。