イエス様は「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と言われました(4:21b)。確かに彼女はイエス様に「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言いました(4:19b)。しかしだからといって「信じなさい」と言われて信じる程、両民族の対立構造は浅いものではありません。このことが「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」という女の言葉に表れています(4:20)。
イエス様が「父を礼拝する」と言ったのはサマリアとエルサレムで信じられている同じ神様のことです。しかしイエス様は彼女に「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」と言われました(4:23)。この言葉はイエス様を預言者と認めたサマリアの女が、イエス様を通じて共に唯一の神様を礼拝するようになるということ、即ち、彼女を先駆けとしてイスラエル民族がイエス様を通じて一つになるということを表現していると思われます。
23節で「礼拝する」という言葉が3度も使われていますが、これらは原語でも同じです。そしてこれらを旧約聖書に求めるとゼファニアの預言に行き着きます。そこには、
主は彼らに対して恐るべき者として臨まれ、地上のすべての神々を滅ぼされる。島々に住む諸国の民も、それぞれの地で主にひれ伏す(ゼファニア2:11)。
とあります。ここで「ひれ伏す」と訳されている言葉がそれにあたります。この節の前には「このこと(町が廃墟となること)が彼らに起こるのは、彼らの傲慢のゆえであり、万軍の主の民を嘲り、驕り高ぶったからだ」とあります(ゼファニア2:10)。ユダは強国に囲まれ、交通の要所でもあったことから征服目標として常にその対象とされていました。だからこそゼファニアは
主を求めよ。主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた/この地のすべての人々よ/恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。主の怒りの日に/あるいは、身を守られるであろう(ゼファニア2:3)
と訴えているのでしょう。
しかしここでは単なる忍耐や慰め、そして希望的観測を語っているのではなく、「島々」という言葉にその特徴があります。このことに基づき話を進めていきましょう。
「島々」という言葉は終末の到来を予見する際に使われる言葉でもあります(イザヤ41:1, 5; 42:4, 10, 12; 51:5, 18; 60:9; 66:19等、参照)。つまり終末には諸国の民すべての間で神様が礼拝されるようになるということです。また旧約聖書を通じて“時が来る”といった類の表現も“世の終わりの時”“裁きの到来”といった終末を意味することが少なくありません。イエス様がサマリアの女に向かって「今がその時である」と言われたのはこうしたことを背景にしていると思われます(4:23b)。イエス様の言葉はエゼキエルの預言を思い起こさせてくれます。そこには、
終わりが来る。終わりが来る。終わりの時がお前のために熟す。今や見よ、その時が来る(エゼキエル7:6)。
とあります。これを踏まえイエス様に出会ったことによってサマリアの女がまさに「その時が来る」ことを体験しているということが伝えられていると思われます。ここで繰り返される“終わりの時”、即ち、終末とはイエス様を通じて実現するものです。また「その時」こそがイスラエルの民が待望していた神様による救いの時なのです。
イエス様はサマリアの女に「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と言われました(4:21b)。これはイザヤの預言を思い起こさせてくれます。そこには、
多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る(イザヤ2:3)。
とあります。イザヤが見た終末の到来による平和とは文面に見られるように「もはや戦うことを学ばない」に集約されています(イザヤ2:4b)。そして「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と語るのです(イザヤ2:5)。ここでの「ヤコブ」は全イスラエルのことです。つまり同じ唯一の神様から愛され、導かれ、そしてそのような神様を信じる民のことです、共に「(神の)山に登り」「主の光の中を歩もう」とイエス様はサマリアの女に言われているのです。ヨハネ福音書でイエス様は御自分を頻繁に光に譬えられます。まさにイエス様はエルサレムという場所からではなく、御自身が神様の光を周囲に輝かせる存在であることをサマリアの女に語っていると思われます。