盲人に出会い、その理由を問う弟子たちにイエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました(9:3b)。彼の目はイエス様によって見えるようになったのですから、その癒しの御業こそ神の業と言えるでしょう。
ところで「神の業」という言葉は新約聖書ではよく使われるものの、旧約聖書を通じては一度しか使われていません。そこには、
妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない(コヘレト11:5)。
とあります。
嘗て「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」と書かれています(4:44)。つまりイエス様の御業や御言葉もイエス様を信じることなしには分からない、また理解できないということです。信じることがなければその御業は単なる不思議な出来事で終わってしまいます。それゆえにイエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と同じ言葉をもって言われたと考えられます(6:29b)。
イエス様は「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」と言われました(9:4-5)。これは神の業をイエス様が生きている間に為されなければならないということの表われでしょう。つまり神の業とはイエス様を通じて神の国が実現することを人間が信じるようになることなのです。それが福音であり、そのことの証が御言葉と御業であると考えられます。
ヨハネでは「神の国」という言葉が“新しく生まれる”という関係で二回使われています。そこには、
はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない(3:3b)。
だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない(3:5c)。
とあります。つまりイエス様を神の独り子として信じるということは新しく生まれるということです。この新しさとはイエス様を通じて従来からの神様との関係が新たに深まるということであると考えられます。イエス様が旧約聖書を通じて神様が約束された救い主メシアであることを考えれば、このことは当然のことであると言えるでしょう。
今日の福音では漠然と信じられてきた伝統的な神様の恵みや救いがイエス様の癒しの業を通じて具体的に現われたと言えます。それは神の国がこの地上に実現した場合、地上での身体的のみならず、人を苦しめる様々な障害からも解放されるということです。
実に同じことは旧約聖書でも語られていました。これこそユダヤの民が伝統的に信じていた終末に於ける救いであると言えます。この時のことはまさにイザヤの預言に見られる、
そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる(イザヤ35:6)。
という描写がそれを表しています。このようなことがイエス様の御言葉と御業の意味であると考えられます。つまりイエス様は単に不思議な業や奇跡によって御自分を信じさせようとしたのではなく、終末の時、また神の国に於いて実現するであろう旧約聖書が語る人間の救いを具体的に現わしたということです。であれば先程引用したコヘレトでの“神の業が分からない”とは異なり、イエス様を通じて神の業が分かるようになったということは終末が近づいたということを意味しているとも言えます。
ヨハネ福音書の中で最も驚くべき御業はラザロの蘇りではないでしょうか(11:1-16参照)。ここでイエス様は「神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました(11:4c)。ここでは「神の業」ではなく「神の栄光」と表現されています。言葉は異なるものの内容はほぼ同じではないかと思われます。なぜなら続いてここでもイエス様は「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と日中のことについて語られているからです(11:9b-10)。ここでも「世の光」という言葉が使われています。またそれにより「昼」は単なる時間のことではなく、イエス様を譬えていることは明らかです。
イエス様が太陽であるとすればそれは沈み、また昇ります。それはイエス様の死と復活を暗示しているのかも知れません(9:4-5参照)。イエス様の復活は神様の御業に拠るものです。イエス様御自身の業ではありません。つまり「神の業」とはまさに神様が為されることであり、そこに人間が崇めるべき「栄光」があると言えるのではないでしょうか。