マグダラのマリアがイエス様の墓に行ったところ「墓から石が取りのけてあるのを見(まし)た」(20:1b)。そこで彼女は二人の弟子のところに走って行き、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と告げました(20:2b)。墓を塞ぐ石があるべきところにないことは遺体をあたかも聖なる物として扱うためにイエス様を信じる者が持ち去ったか、団体が象徴として遺体を利用し、勢力を強大化することを未然に防ぐためにイエス様を好ましく思ないグループによって盗まれたと考えるのが自然です。
ここで深い驚きや悲しみと共に発せられたであろうマグダラのマリアの言葉を少し注意深く読んで考えてみましょう。この場面は容易に想像できることから文面に注目されることは少ないと思われます。そのため単なる状況説明のようなものとして考え、読み飛ばされてしまうことが多いのではないでしょうか。彼女が弟子たちに発した言葉はイエス様の遺体が墓から「取り去られました」、またその遺体が「どこに置かれているのか」と受動態で訳されています。しかし原語ではこれらの動詞は能動態の複数形で表現されています。このことが何を意味しているのでしょうか。
そもそも神様が命の与え主なのですから、愛によって命を与えた主なる神様が自らの業であるその命が滅ぶことを義しとするわけはありません。遺体が墓に無かったことについて能動態の複数形が使われている理由は、何らかのかたちでイエス様の遺体を利用するとなれば、複数で持ち運んで人目に触れないようにすることしかできないということかも知れません。
この後、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉」とあります(20:9)。しかしこの「聖書の言葉」は旧約聖書にはありません。そもそも復活自体が歴史上はじめて生じたことなのですから見られないのは当然です。しかし詩編には、
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず(詩編16:10)
主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました(詩編30:4)
とあります。これらを踏まえると神様は御自分を慕うものを死なせない、否、死んだままにしておかれないということです。それは肉体が朽ち果て、地に帰ることを許されないということでもあります。それが復活なのです。
イエス様の復活については先程の詩編に続いて、
命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます(詩編16:11)。
とあります。これを踏まえ「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉」を考えてみましょう(20:9)。
この箇所を直訳すると“なぜなら死んでいる(状態)から彼を起こすことは必要だからである”となります。ここで能動態が使われていますが、神様は御自身の意志で死から命を与えることができます。これが神様の「右の御手」による力です。ここでは現在形で表現されています。ということは動作の継続を含むことから、その御業は現代にも及んでいるということです。まさにイエス様は真の命を御自分の復活を通じて教えるために、神の御手が立ち上げた、即ち、復活させられたということが語られているのではないでしょうか。復活を想像させることに関しては先程引用した詩編に見出すことができます。福音書での復活は「起きる」「目を覚ます」の受動態で表現されることがあります。であれば復活とは旧約の伝統に則ったまさに神様の御業であると言えるのです。