今日の福音で二人の弟子は歩きながらイエス様の死に関係する話をしていたと考えられます(24:14)。「弟子」と書かれていることからイエス様の御言葉や御業については一通りのことは知っていたことでしょう。しかし「復活」についてだけは合点がいかなかったと思われます。だからこそ彼等は後に「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです」と驚きと共にイエス様に語ったのです(22:22-23)。
二人の弟子の「やり取り」を聞いて(24:17a)、イエス様は彼等に「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言われました(2:25b-26)。つまり彼等が信じ切れない復活についての理解の糸口がイエス様を通じてこの「やり取り」の中に含まれているということです。因みにこの言葉は原語では新約聖書を通じてここでしか使われていません。それだけ重要なことが含まれていると考えられます。
二人の弟子はイエス様に「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」と話しました(24:19b)。この受け答えの中で「前で」という前置詞が使われていますが、これは福音書の中でルカでのみで使われているものです(1:6; 20:26; 24:19)。これに相当するヘブライ語は見当たりませんが、似た表現を旧約聖書に求めると出エジプト記が思い起こされます。そこには、
モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った(出エジプト記19:7)。
とあります。これはモーセがシナイ山で神様から託されたことを民に語った場面です(出エジプト19:1-6)。その内容の核心は「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである」ということです(出エジプト19:5)。
であればこれを踏まえ「前で」という言葉をもってイエス様の復活は神様によって人間が救われ、新しい命に生きることになる証明であり、イスラエルの民全体の中で語られるべきことであるということが織り込まれているのではないでしょうか。
その後、二人は「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」と言葉を続けます(24:21)。ここで「解放」と訳された言葉は福音書の中でルカでしか使われていません。これは詩編の中では「贖う」や「解放する」と訳されることもあります。そこには、
神よ、イスラエルを/すべての苦難から贖ってください(詩編25:22)。
わたしの魂に近づき、贖い/敵から解放してください(詩編69:19)。
とあります。今日の場面はイエス様が神様と等しい存在であると信じるのなら、神様によって苦難から救われ、永遠の命を得るこができるということ、またやがてエルサレム中にそのことが広がることを予見しているのではないでしょうか。
確かにイエス様は三日目に御自分が復活なさることを幾度となく語られていました(16:1; 17:23; 20:19参照)。これは神様の御業が現れるのは旧約時代に於いて三日目であると考えられていたからです(ホセア6:2参照)。このようなことが二人の弟子たちとイエス様との話の中に織り込まれていると言えるのではないでしょうか。