イエス様は御自分を門に譬え(10:7c)、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」とも言われました(10:8a)。ここで「来た」と訳される言葉は原語では“来る”も“行く”も意味する動詞です。また「前に」は原語では時間的にも位置的にも使われる前置詞です。であれば「羊の囲いに入るのに門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者」とは、門の内側にイエス様を差し置いて入ろうとする輩のことであると言えます。このような者をイエス様は「盗人であり、盗賊である」と言われたのです(10:1, 8)。
当然のことながら知らない人間に聞き従う家畜はいません(10:3-4)。それゆえにイエス様を通らずして門の内側に入ろうとしても(10:1b, 7b)、「しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」とイエス様は語られるのです(10:8b)。これは先に話された「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」という内容に呼応するものであることは明らかです(10:3-4)。
盗人や強盗という言葉をイエス様が使われた理由を考えるとエレミヤの預言が思い起こされます。そこには、
「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる(エレミヤ23:1)。
それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる(エレミヤ23:2)。
とあります。
これらの節の背景となるのはバビロン捕囚です。預言者であるエレミヤは捕囚からの解放という希望を預言として伝えようとしています。しかしその希望は引用した節に見られるように神様の御心に反する行いをした者が罰せられることによって始まります。何事も原因となったことが解決しない限り、同じことが繰り返されるものです。つまり神の民である「牧場の羊の群れを滅ぼし散らした牧者たち」とは時の預言者たちの言葉を信じることなく、神様の御旨に反することを繰り返していた者たちのことでしょう。このような者たちのことをイエス様は盗人や強盗に譬えられていると考えられます。
エレミヤでは続いて、
「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす(エレミヤ23:3)。
彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる(エレミヤ23:4)。
と書かれています。この「群れの残った羊」とは捕囚されることなくユダ王国に残された者、またバビロニアの侵攻により国内にいられなくなった者のことを指しているでしょう。
おそらくイエス様はこの言葉に宗教的権威者たちや社会一般でも相手にされなかった者、また蔑まれてきた者のことをも重ねておられると思われます。エレミヤを踏まえてイエス様はやがて彼等のような者たちから御自分の福音を信じる者が増えていくということを言葉の裏で語られているように思えます。イエス様を信じる者たちには恐れも怯えもなく、またその群れから迷い出る者もいません。このような者たちが集まる場所こそが神様の御許であり、「牧場」なのです。そこでイエス様は彼等を牧するがゆえに「わたしは羊の門である」という言葉を使われているのではないでしょうか(10:9a)。
イエス様は「わたしは羊の門である」と言われました(10:7)。「門」という言葉は詩編を思い起こさせてくれます。そこには、
憐れんでください、主よ/死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。御覧ください/わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを(詩編9:14)。
とあります。「死の門」は滅びに通じるものであり、神様との関係がまったく断ち切られることです。これとは反対にイエス様は神様の御許で永遠の命に与らせることができることから御自分を「羊の門」に譬えられているのでしょう。まさにイエス様は「死の門からわたしを引き上げてくださる方」、即ち、神の独り子です。このことはイエス様御自身が「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と語られている通りです(ヨハネ3:16)。
またイエス様は御自分を「良い羊飼い」に譬えます(10:11a, 10:11b)。その「良さ」とはイエス様自身が後に語るように「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」ということであると考えられます(ヨハネ6:37)。