【十字架称賛 ヨハネ3:13-17】

今日の福音でイエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」と語られましたが、これは民数記にある「青銅の蛇」を踏まえたものです(民数記21:4-9)。この話については御存知かと思われますので省略しますが、一読すると話の流れから不可解で違和感をもってしまうものです。そこで少し考えてみましょう。

重要な点は旗竿の先に掲げられた青銅の蛇を見た者は、たとえ炎の蛇に噛まれたとしても命を得たということです。一般的にこの旗竿が十字架の前表であり、多くの人の憎悪の中で自ら死を選んだイエス様を信じることによって永遠の命を得ることができるという理解がなされることがあるようです。確かにあながち間違いであるとは言えません。しかしここでの少しの寄り道がこの箇所の理解を一段と深めてくれます。

確かに創世記で蛇は神に呪われました(創世記3:14)。しかしその存在が民数記では命を与えるものとなり、イエス様御自身も「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と語られました(ヨハネ3:14a-15)。ということは一見すると矛盾であるかのように思える“蛇”と“救い”との間にはどこかに共通点があるということです。

さてゲマトリアという手法をご紹介致します。ゲマトリアとはアルファベットの一文字に数値を割り当て、ある単語の総数を計算し、それによりその単語に代えて数字をもってその語を表記する方法のことです(アルファベットの数価は下図を参照)。“蛇”は英語のアルファベットで表記すればNHSです。Nは50、Hは8、そしてSは300ですから合計が358となります。これに対して救いをもたらす者、即ち、“メシア”を同じく英語のアルファベットで表記すればMSYHです。Mは40、Sは300、Yは10、Hは8ですから合計が358となります(下図参照)。実に蛇とメシアのゲマトリアは同じ数なのです。神から呪われた存在である蛇が救いをもたらすものとなるという一見すると矛盾した話もゲマトリアを考えると納得できるものです。そしてこうしたことに聖書を読み解く面白さがあるといえるかも知れません。

 

ピラトが書いたイエス様の罪状書には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とありました。またエルサレム入城にあたって多くの群衆はなつめやしの枝をもってイエス様に「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に」と叫びました(ヨハネ12:13)。イエス様は福音を通じて神の国の到来とその実現のために互いに愛し合うことを教え続けられました(ヨハネ13:14-15; 15:12, 17)。これがイエス様の宣教の目的でもあったと言えるでしょう。であれば神様にとっての真の王とはイエス様のことであるのです。

王とは権力や財力といった力によって人を統括する者のことではありません。人を救える者、人を神様へと導ける者こそが真(まこと)の王であると言えます。御受難の場面を思い起こせばイエス様に対するユダヤ人たちの嫌悪感は頂点に達していました。それこそ旗竿の先に掲げられた青銅の蛇のようなものでしょう。人の命を奪う存在が象徴化された物に対しても人間の恨みは確実に伝わるものです。しかしその蛇を見ることによって炎の蛇に噛まれた者は命を得たのです。この話を通じてイエス様は何を言わんとされたのでしょうか。

十字架上でのイエスを見上げるユダヤ人たちは皆一様にイエス様に侮蔑ぶべつの眼差しを向けていたことでしょう。人の命を奪った蛇を象徴化したものを民がどのように見上げたのかを考えれば想像が付きます。しかし「蛇」と「メシア」のゲマトリアは同じです。ということは双方が共に民にとって転換点となるということが意味されていると言えます。もしそうであればイエス様に向けたその眼差しはやがてあこがれとなり、「永遠の命を得るため」にイエス様を仰ぐようになるということです(ヨハネ3:15)。それはいつか福音が信じられ、民がイエス様を信じて生きようとするようになるということでもあります。

イエス様は十字架上で自らの命をあがないとして神様に捧げられました。それは互いに愛し合うことによって神の国がこの地上で実現することの証ししだったのです。イエス様の福音を信じるのであれば、イエス様が語られたようにユダヤ人たちは「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」ということが理解できるはずです(3:17)。こうしたことを語るためにイエス様は民数記での蛇の話を併せて語られたのではないでしょうか。

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