イザヤの預言には「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」とあります(イザヤ55:6)。これは第二イザヤのまとめでもあります。バビロン捕囚という悲劇は民が神様に立ち帰るための神様の計らいのうちにあるものでした。
この人間的には信じられない「計らい」こそ神の知恵であり、それを「見いだす」ことによって前回のシラ書にあるように神の民として敬意を払われるようになるのです。そのように生きるためにイエス様は隣人愛の実践を掟として与えられたのでしょう。であれば日常生活の中にも神様の計らいがあるということでもあります。
改めて前回に触れた「知るようになる」をヘブライ語に訳すると出エジプト記が思い起こされます。そこには、
ファラオが、「明日」と言うと、モーセは答えた。「あなたの言われるとおりにしましょう。あなたは、我々の神、主のような神がほかにいないことを知るようになります(出エジプト8:6)。
とあります。これを踏まえると隣人愛の実践を通じて敵対する者であってもイエス様が神の独り子であることを認めるようになるということでもあります。実に敵対する者ですら隣人愛を通じてまことの神様を知ることに通じるのです。