3)聖書の背後にあるもの
洋の東西、また時代を問わず人間の知性と教養の一端は古典の理解にあると言えるではないでしょうか。であれば時代的に新しい書簡はそれ以前の書簡の何処か、また何かを踏まえているということです。それはそのままの引用、意図を汲んでの流用、また批判的継承かも知れません。日本人の感性からすればこのような表現形式は和歌の「本歌取り」の手法に通じるものとして理解できるのでしょう。本歌取りとは秀逸な歌の上の句を用いて新たな歌を作る手法です。このような歌は元歌の理解があってこそ新しい歌の深みを味わえるのです。これと同じように福音書を読むと旧約聖書のどこかに似た表現があったようことに気付きます。お手元の聖書の巻末を開いて貰えればそこに「新約聖書における旧約聖書から引用箇所一覧表」と題されたページが必ずあります。ここからも分かるように聖書とは旧約聖書と新約聖書の二つをもってイエスを志向した一つの聖書であると言えるのです。常にイエスの「聖書はわたしについて証しをするものだ」という言葉を思い起こしたいものです(ヨハネ5:39b)。