ユダヤ人たちはイエス様に「メシアなら、はっきりそう言いなさい」と言いました(10:24)。ここでの「そう」は原語では“はっきり言うこと”を意味する名詞であり、これは第二正典である知恵の書でも使われています。そこには、
裁きの時、神に従う人は、/大いなる確信に満ちて立つ。彼を虐げ、彼の労苦をさげすんだ者どもの前に(知恵5:1)。
とありますが、ここで「確信に満ちて」がそれにあたります。これを踏まえると「裁きの時、神に従う人」にイエス様を読み込めます。そして「彼を虐げ、彼の労苦をさげすんだ者ども」がユダヤ人たちということです。知恵の書では続いて、
彼らは自分たちの考えの誤りに気づき、/胸をかきむしりながら、嘆いて言う。「この者を、かつて我々はあざ笑い、/愚かにも、ののしりを浴びせた。その生き方を狂気のさたと考え、/その死を恥辱と見なしていた(知恵5:3-4)。
とあります。まさにイエス様を十字架にかけた者たちのことを先取りしていると言えるのではないでしょうか。福音記者ヨハネはこうしたことを想起させようとしたと考えられます。しかしこの「そう」をヘブライ語に訳して考えると違った読み解きができます。続きは次回に …。