主日の福音

復活節第四主日ヨハネ10:27-30 その5

大祭司カイアファはイエス様が国民のために十字架に架かって死ぬべきであると考えていました(11:51参照)。なぜならそれがカイアファにとって「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるため」に必要であったからです(11:52)。ここでの「集める」は能動態です。対して前回引用した詩編に見られる「集める」は受動態で表現されています。つまりイエス様を通じて神の国が実現するためには民が一つに集められることが必要なのです。人の意志によって誰かを集めるのではなく、神様やイエス様によって集められることが神の国の実現に通じます。そのためにイエス様は自らの命を捧げる必要があったということが福音記者ヨハネの理解であると思われます。人間では同じ次元の存在である人間を救えません。洗礼者ヨハネが語ったようにイエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」です(1:29)。だからこそ贖いの代価は父と一つであるイエス様以外には払い得ないのです。このようなことがヨハネ福音書には描かれているのではないでしょうか。このことが共観福音書とは異なる最期の晩餐の記述に表れていると考えられます(下図参照)。

最後の晩餐のズレ

最後の晩餐から復活の日までの出来事を共観福音書とヨハネ福音書との間で比較したものを表にしてみました。上表に見られるように最後の晩餐が一日ずれるということはどうしようもありません。ではどちらが間違いでどちらが正しいということなのでしょうか。ここに各福音記者の最後の晩餐についての理解の違いを読み解けるのです。共観福音書の記者たちは最後の晩餐こそが本当の過越の食事、即ち、神との新しい契約の締結の時であると理解したのでしょう。対して福音記者ヨハネは最後の晩餐はまさに別れの食事であり、その翌日にイエス様は旧約の伝統に基づき贖いの生贄として御自身の命を捧げてくださったということを込めたのではないかと考えられます。

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