主日の福音

2025年11月16日【年間第三十三主日ルカ21:5-19】

今日の福音でイエス様は「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」と言われました(21:18)。この表現と類似したものは旧約聖書の中で三箇所見られます(Ⅰサムエル14:45;Ⅱサムエル14:11;Ⅰ列王記1:52)。これらの背景となったことを仏教的な表現を用いれば、“神の御旨に反するといえども、それが他者への思いであれば救われん。いわんや神の御旨に従うとなればや”となるでしょう*。であればイエス様を信じることを隠して他者から好かれる者は確かに救われるものの、イエス様を信じることを表わして他者から嫌われる者はなお救われるということであると言えるのではないでしょうか。だからこそイエス様は「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」と言われたのかも知れません(ルカ21:17)。なぜこのような深読みができるのでしょうか。その理由は「憎まれる」と訳された言葉にあります。この言葉は「幸いと不幸」と題された中で「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」と使われているからです(ルカ6:20-22)。

* 「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」という『歎異抄』にある言葉を筆者がもじったもの。

 

イエス様が語られた「(わたしの)名のため - 憎まれる」という言葉をヘブライ語で考えるとイザヤの預言が思い起こされます。そこには、

御言葉におののく人々よ、主の御言葉を聞け。あなたたちの兄弟、あなたたちを憎む者/わたしの名のゆえに/あなたたちを追い払った者が言う/主が栄光を現されるように/お前たちの喜ぶところを見せてもらおう、と。彼らは、恥を受ける(イザヤ66:15)。

とあります。この節の内容は一読して分かるように神様を信じない者は神様を信じる者をそしるということです。実にこの考えはヘブライ語の「祈り」にもあてはまります。ヘブライ語で「祈り」という言葉は“おろかしい”“むなしい”を意味する形容詞を名詞化したものです。であれば祈りとはその行為自体がそのようなものであるということなのでしょうか。否、それは神様を信じない者にとって祈りは意味がないもののように思えるということでしょう。であればおそらく神様を信じる者は神様を信じない者から絶えずその意味を問われ、批判や嘲笑を浴びせられてきたことを表わしていると考えられます。そうしたことが引用したイザヤの預言に見出せるのです。

引用した節に続いて、

都から騒がしい声がする。神殿から声がする。敵に報いを返される主の声が聞こえる(イザヤ66:6)。
産みの苦しみが臨む前に彼女は子を産み/陣痛の起こる前に男の子を産み落とした(イザヤ66:7)。
誰がこのようなことを聞き/誰がこのようなことを見たであろうか。一つの国が一日で生まれ/一つの民が一度に生まれえようか。だが、シオンは/産みの苦しみが臨むやいなや、子らを産んだ(イザヤ66:8)。

とあります。シオンとは元来、エルサレム北東部に位置したソロモンの神殿の丘を示すものでしたが(詩篇50:2; 132:13)、やがてエルサレム全市、及びその全住民のことを指すに至りました(詩篇14:7; 147:12)。つまりイスラエルの民全体を表象していると言えます。そのシオンが「産みの苦しみが臨むやいなや、子らを産んだ」という表現には、イエス様の教えを信じることを通じて一時は苦境に陥るもののイスラエルから神様を信じる新しい民が生まれるということを読み込めるのではないでしょうか。こうしたことを踏まえてイエス様は「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と言われたと考えられるのです(ルカ21:19)。

イエス様は「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と言われました(21:19)。ここで「かち取る」と訳された言葉は箴言を思い起こさせてくれます。そこには、

わたしの口が言いきかせることを/忘れるな、離れ去るな。知恵を獲得せよ、分別を獲得せよ(箴言4:5)。
知恵の初めとして/知恵を獲得せよ。これまでに得たものすべてに代えても/分別を獲得せよ(箴言4:7)。

とあります。これらで繰り返される「獲得せよ」がそれにあたるのですが、おそらくイエス様は強い口調で語られたと思われます。これらのくだりの結論は、

わたしはあなたに知恵の道を教え/まっすぐな道にあなたを導いた(箴言4:11)。
歩いても、あなたの足取りはたじろがず/走っても、つまずくことはないであろう(箴言4:12)。

です。これを踏まえれば、まさにイエス様は神様の知恵を教え、民を神様に導くのです。であればその知恵を受けて迫害にあっても信仰の道を歩み続けなさいということを言わんとされたと考えられます。イエス様が語られた希望 … それはまさにイエスの御言葉と御業を信じるのであれば信仰の歩みは揺らぐことがないということではないでしょうか。

TOP