主日の福音

2025年9月28日 【年間第二十六主日ルカ16:19-31】

陰府よみで炎にさいなまれ、苦しんでいた金持ちは、目にしたアブラハムに助けを求めるものの彼はそれにこたえません。その理由として二人の生前の生き方の違い取り上げ、それを思い起こさせ、そして「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」と絶望的なことを語ります(ルカ16:26)。アブラハムが金持ちをまったく取り合わない理由の中心でもあるこの“淵を渡ることも越えてくることもができない”という表現が何を意味しているのかを考えてみなければなりません。これを通じてこの話の本質が理解できることでしょう。

さて、「大きな淵」と訳された言葉は新約聖書を通じてルカにしか見られない非常に特徴的な言葉です。そこで「淵」と「渡る」、また「越えて来る」が同時に使われている箇所を考えるとイザヤの預言が思い起こされます。ちなみに「渡る」と「越える」はギリシア語では異なる単語が使われていますが、ヘブライ語では同じ言葉です。これらの言葉が今日の話とどのような関係があるのでしょうか。

イザヤの預言には、

海を、大いなる淵の水を、干上がらせ/深い海の底に道を開いて/贖われた人々を通らせたのは/あなたではなかったか(イザヤ51:10)。

とあります。ここではバビロニアに連行された捕囚民を勇気づける言葉がその内容となっています。異邦の地であらゆる希望が失われたかのような状況にあって一縷いちるの希望は神様にしか見出し得ません。これは一読して出エジプトでのあしの海での出来事を踏まえていることが分かります。このユダヤ人共通の記憶とも言うべき神の救いの御業を踏まえれば、神様は苦しみの時代を終わらせ、新しい救いの時代をひらける唯一の方であると言えます。

その新しい時代を生きるためには嘗て神様が遣わされたモーセを信じることが必要でした。また時代と共に国や民が困難な状況に陥った際には預言者たちの言葉を受け入れることが神様の庇護ひごの下で生きることに通じるはずでした。しかし実のところユダヤ人の歴史を振り返れば神様の守りと救いを語る預言者たちの言葉を聞き入れないばかりか、それに反することの繰り返しだったのです。残念なことにそれはイエス様に対しても同じだったのです。

アブラハムは金持ちに「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言い放ちました(ルカ16:29bc)。これに対して金持ちはアブラハムに、「もし、死んだ者の中からだれが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」と食い下がるものの(ルカ16:30b)、アブラハムは「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と金持ちを切り捨てます(ルカ16:31b)。ここで「言うこと」と訳された言葉は詩編を思い起こさせてくれます。そこには、

わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た(詩編22:5)。

とあります。ここで繰り返される「寄り頼み」がそれにあたります。まさに先程のイザヤの預言と同じく神様にり頼むことによって国も民も力づけられ、本来ならイスラエルの民は救われるべきであったということです。詩編で頻繁にうたい続けられるこの伝統に聞き従わない者は神様から離れた生き方をしてきたようなものです。それゆえに死後も神様から離れたところにいるのは当然のことであると言えるでしょう。

今日の話は「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」というアブラハムの言葉で結ばれます(16:31b)。ここでの「死者の中から生き返る者」は復活したイエス様を表しています。またモーセや預言者も神様が遣わした神の使者であると言えます。まさにこの言葉をもって神様の救いを語る彼等の言葉を受け入れない者は神様の御心を理解することはできないということです。アブラハムが金持ちを見捨てた理由をここに見出せるでしょう。死はその人を決定づけます。それゆえに死後になって、生きてきた事実をくつがえすことはできません。

今回はその誤謬ごびゅう
の具体例について触れておきます。「セカンド・チャンス」と呼ばれる日本の教会の中に密かに浸透し始めている似非えせ神学があります。これはキリストを知らずに死んだ者でも死後の世界で再び福音を聞く機会があるという考えです。であれば死後であっても回心する可能性に開かれているという結論に至ります。つまりキリストを知らずに死んだ者、神やキリストを否定した者に復活の可能性を認めているのです。

「セカンド・チャンス」は日本人が好む相対的な価値観が色濃く反映されています。この説は聖書的背景から導き出されているようですが、プロテスタント諸派の一部からのものであり、肯定派と否定派が存在するようです(使徒2:27, 31;フィリピ2:10-11;Ⅰペトロ3:18-19;黙示録5:13; 20:12等)。

人間とは人格をもつ存在して、自らの行為に責任を取れるように自由が与えられています。それゆえに死はその人を生きてきたように決定するのです。自由意志を与えられた人間はその生き方を問われる存在でもあるのです。

アブラハムの言葉は生きてきた事実をくつがえすことはできないという信仰を如実にょじつに表していると言えます。それゆえに死者の中から生き返った者、即ち、復活したイエス様の御言葉と御業をいつも心に留め、それが意味することを考え続けながら信仰生活を送りたいものです。

聖書や信仰は死後の安心感を与えるものではありません。つまり神の愛と慈しみを逆手に取ったかのような慰めが語られているのではありません。実に安易なヒューマニズムを福音に読み込むことによって正統信仰を歪めることになってしまうのです。

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