8月15日は日本では世間一般に終戦記念日としてお祝いされます。しかしカトリックの典礼暦では聖母被昇天の祝日となっております。この日にザビエルが日本に入港したと記録されていますが、この祝日が教義として制定されたのは1950年のことです。ですからザビエルは聖母被昇天の祝日を選んだのではなく、おそらく彼の故郷であるスペイン、また、現代では失われてしまった何かの記念日や祝日を選んだのかも知れないというのが本当のところでしょう。
この日は「被昇天」という言葉が表すようにマリアが天に上げられたことをお祝いします。しかしこのことについては聖書の何処にも見当たりません。一般的にイエスは神の独り子であることから自ら天に昇ったことにより「昇天」と呼ばれ、マリアは人間であることから神の力によって天に上げられたことにより「被昇天」と呼ばれていると考えられているようです。ところが福音書でイエスは原語でも「天にあげられ(た)」と受動態で書かれています(マルコ16:19;ルカ24:51)。確かに受動態は尊敬の意味を含んでいると言われることもありますが、このことについて今は語ることは止めましょう。とにかく聖母被昇天とは聖書的根拠のない民間信心のようなものなのでしょうか。またそれをカトリックは教義として強引に制定したのでしょうか。
実に被昇天の教義に関する根拠を聖書に求めることは難しいでしょう。この教義が制定される以前にマリアは無原罪であるという教義が制定されました(1854年)。これに基づいての教義であると考えるのが無難であるように思えます。この教えは「聖母マリアはこの世に生を受けた瞬間、受胎時、即ち、マリアが母親であるアンナの胎に宿ったとき既に原罪の汚れから守られていた」という教えです。この教義が制定されるにあたってカトリックの内部からも批判があったようです。事実、この教義は「教会の会議に諮ることなく教皇によって宣言された」ものであると言われています(キリスト教新聞2面「マリア=キリストにある恩寵と希望」2005年7月9日、より)。
それはそれとしてやはり教義であるのですからそれは聖書に基づかなければなりません。聖書があってこそ教義があるのです。そこで聖書的に考えるとパウロが語るように死は罪の結果です(ロマ5:12)。であれば原罪を犯す前に死はなかったということになります。それゆえカトリックではマリアの死を考えることができず、天に昇られたという結論に自ずと導かれたのかも知れません。確かに難しい神学的論証はありますが、それらが果たして論証とは言い得るかは大いに疑問です。要するにマリアはイエス・キリストの母ということから導かれていると言えるでしょう。このことに関しては機会があればまたお話しすることにしましょう。