主日の福音

【年間第二十主日ルカ12:49-53 その2】

エレミヤの預言には、

「彼らが帰りたいと切に願っている国へ帰ることはできない(エレミヤ22:27)。」

とあります。これはバビロン捕囚にあたっての神様の言葉です。当時のユダの国王エホヤキンはバビロニアに連行されましたが、これは神様の御心でもありました(エレミヤ22:24-26参照)。これを踏まえると神の炎による裁きの如く、地上が火で精錬された後でイエス様は御自分の国に帰りたいと切に願っているということでしょう。その国こそ神の国です。であればイエス様の言葉にはこのままではエホヤキンと同じく神様の御許に戻れない、即ち、この地上は神の国にはならないという嘆きが込められていると言えます。

しかしその神の国に戻るとするならば受けなければならない洗礼があるとイエス様は言われます。この「洗礼」という言葉は「(水に)浸す」という動詞を名詞化したものです。ここではおそらく原語から水に浸される苦しみ、即ち、水責めを言い表しているとも考えられます。しかしそれは拷問のようなものではなく、神様からの新しい祝福を受けるための準備の時でもあるかのように受け取れます。このことを次回、考えてみましょう。

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