主日の福音

2025年10月12日 【年間第二十八主日ルカ17:11-19】

「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」と小見出しが付けられた箇所はルカ福音書にしか見られません。登場人物である一人のサマリア人ですが、この話を理解するために彼等が蔑視べっしされていたことを歴史的に極簡単に振り返ってみましょう。

アッシリアによりイスラエルは征服されました(前722)。この後、アッシリアの政策によりサマリアの大多数はアッシリアに捕囚として移され、代わりにアッシリアからは大勢の移民がサマリア入ってきました。これにより残留したイスラエル住民と異国人の上層階級とが混血になったことから、当時のイスラエルの人々はサマリア人をイスラエルの血を汚す民族であり、彼等により神の民であるイスラエルは永久に汚されてしまったとユダに住む者たちは考えたのです。このことがすべての始まりでした。
歴史的に見るとその後、サマリア人はエルサレム教団から離脱し、シケムのゲリジム山に独自の聖所を建てたと言われています(前4~3世紀頃)。彼等はモーセ五書をエルサレム教団から受け継ぎ、それら以外を正典としては認めませんでした。それがサマリアとエルサレムの両教団の内的異質化と対立を決定的なものとしたと言われています。

ルカ福音書に於いてイエス様はサマリア人を擁護しているかに見受けられます。それは「サマリア人から歓迎されない」と題された中で「主よ、望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言うヤコブとヨハネの二人を戒められたことからも分かります(9:51-56参照)。また「善いサマリア人」の話を考えれば話の中心をサマリア人にすることにより、一般の民衆や宗教的権威者たちのように彼等を蔑視べっししていないことが分かります(10:33-37)。こうしたことを踏まえてイエス様の「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」という言葉を考えると(17:18)、イザヤの預言が思い起こされます。そこには、

御言葉におののく人々よ、主の御言葉を聞け。あなたたちの兄弟、あなたたちを憎む者/わたしの名のゆえに/あなたたちを追い払った者が言う/主が栄光を現されるように/お前たちの喜ぶところを見せてもらおう、と。彼らは、恥を受ける(イザヤ66:5)。

とあります。この節を含むイザヤの預言の66章は最終章であることから全体のまとめとしての意味合いが強いと言えるかも知れません。

前回引用したイザヤ書の冒頭と同じ表現がこの章の始まりに見られます(イザヤ66:1-2)。そこには、

主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか(イザヤ66:1)。
これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人(イザヤ66:2)。

とあります。一読して分かるように人間には神様の安息の場を造ることはできません。神様は日常の中で苦しみ、霊的にもあえぎ、御自分の言葉を畏れる者と共におられます。このことを神殿にたとえると神様は都合よく自分の理解の内に御自身を留めようとする者ではなく、神様を神様として仰ぐ者と共におられるということでしょう。ユダヤ人の歴史をさかのぼれば神様を頼りとする以外に生きていくすべのない者たちは社会から等閑なおざりにされてきました。それに輪をかけてサマリア人であれば、同胞でありながら更に辛い立場に追いやられてしまったことは容易に想像されます。

イエス様は重い皮膚病の治癒を切望する10人すべてを清められました。それは何処どこに属していようが神様を信じる者にはイエス様を通じて癒しが与えられることを意味しています。神様にあっての兄弟姉妹が差別されることは決してありません。神様は必ず救いの手を差し伸べてくれます。病の癒しと救いを考えると詩編の言葉が思い起こされます。そこには、

主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し(詩篇103:3)

命を墓から贖い出してくださる(詩篇103:4a)。

とあります。旧い時代を経てイエス様によって新しい時代になりました。神様を信じる者にはイエス様を通じて病の癒しがもたらされ、命は墓からあがない出される、即ち、復活の命にあずかることができるのです。

実に神様を信じていると自負していた者たちの信仰とは祭司たちに重い皮膚病が癒されたことを証明してもらうという人間的なことに拘泥こうでいするものであったと言えるでしょう。癒しが神様によってなされたことを理解し、神様に賛美と感謝を捧げようとしたのは一人のサマリア人だけだったのです。大きな落胆と共にイエス様は彼に新しい時代に相応ふさわしい信仰を見出していたことでしょう。

TOP