今日の福音でイエス様の結びの言葉は「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」です(6:40)。これは“すべての人が終わりの日、即ち、終末にあって復活する”ということを意味するのではありません。永遠の命を受けるにあたっては条件があります。それがイエス様を見て、信じることです。キリスト教に於いてそのはじめから“最終的には誰でも救われる”という異端がありました。そしてこの考え方が多くの信徒を惑わしました。これは「万人救済説」と呼ばれています。そして問題となるのはこの異端はかたちを変えて現代にまで続いていることです。おそらくキリストを信じない人でも救われて欲しいという人間的な優しい思いや心が安易に異端的理解と結び付いてしまうのではないでしょうか。それゆえにイエス様の御言葉を正しく理解しようとしなければ、この問題を含めて福音を自分にとって分かり易いように、また都合よく解釈しようとしてしまう傾向が生じるのです。それゆえに学びが必要となるのです。学びが信仰を確かなものとし、信仰が学びを促すものであるという側面を大事にしたいものです。
* 万人救済説(universal restoration / アポカタスタシス(apokatastasis))とはオリゲネスに基づく異端的考えである。確かに使徒書にはイエスが来臨する時には万物が新しくなるということが書かれているが(使徒3:21)、これは終末を迎える時、万物は創造の時と同じ完全な状態に復元されるということではない。しかしこの説によれば原初の時と同じ状態に回復すると理解し、すべてのものが救われるという解釈に至る(オリゲネス『諸原理について』小高毅(訳)、創文社、1978年、272-276頁、参照)。イエスが教えるように誰もが救われるのではなく、救われるための条件がある(マタイ7:21参照)。しかし救いは神の被造物であるすべての人間に向けられたものであることに間違いはない。
オリゲネス(185~254)とは現代の神学研究者たちに「彼によってキリスト教教義学が確立した」と言わせしむる古代教会に於ける最大の神学者である。しかし後の時代になると御子従属説的理解 - イエス・キリストは父なる神の従位にあるという神の単一性原理を主張する説 - により異端とされている。
さて「見て」と訳された言葉は原語では“気付く”“認める”といった意味もあります。同じヨハネ福音書でイエス様は、
はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない(8:41)。
と言われました。ここでの「死ぬことがない」という中で使われているのですが、直訳すると“死を見ることがない”となります。つまりイエス様と何らかのかたちで出会うか、イエス様を知るようになったうえで、信じるようになり、そのうえでイエス様の言葉を守るのなら永遠の命を受けることができるということです。この言葉は創世記の
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け(創世記1:4)、
を思い起こさせてくれます。ここでの「見て」にあたります。これを踏まえヨハネ福音書的に考えるのなら光はイエス様を意味するのですから、これに対する闇はイエス様を信じない者たちの隠喩であるとも考えられるでしょう。イエス様が語るように神様はすべての者が復活することを望んでいるものの、現実にはそのようにはならないということがイエス様の言葉に織り込まれていると考えられます。だからこそ神様の御心が実現するため福音書が書かれたと言えるかも知れません。
また「信じる」と訳された言葉と先程の「見る」と同時に使われている箇所を考えると詩編が思い浮かびます。そこには、
わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを(詩編27:13)。
とあります。この詩編のはじまりは、
主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう(詩編27:1)。
となっています。ここでも神様は民にとっての「光」であり、救いの砦ともなっていることが書かれています。ということはこの詩編を踏まえればイエス様の時代とは神様を信じると雖も様々なことによって生活や命が脅かされることが少なくなかったということです。であればイエス様の福音宣教に対して群衆は御言葉を聞き、納得しようとも敢えて距離を置こうとする者も多かったかも知れません。イエス様を知って、御言葉を理解し、神様の御心を悟ったがゆえに被るかもしれない何らかの危険を民衆は微妙に感じていたこともあったでしょう。いつの時代でも体制側に属していれば安心するものです。これが御受難の場面に於ける群衆の心理的な背景の一つと言えるかも知れません。
イエス様は御自分を見て信じることによって誰もが永遠の命を得るということを語りました。そしてそれが神様の御心でもあるということも言われました。光が天地創造のはじまりであったように、ヨハネ福音書に於いて光であるイエス様の存在が新たな時代の先駆けとなるのです(創世記1:4a参照)。それゆえにヨハネではイエス様が頻繁に光にたとえられていると考えられます。その新しい時代に向けてイエス様は神の国について、
はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない(3:3c)。
だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない(3:5c)。
と語ります。このように考えると冒頭でイエス様が言われた「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」の意味が分かるのではないでしょうか(6:40)。人はイエス様を通じて新しく生まれること、即ち、水と霊とによって洗礼を受けることを通じて神の国で復活の命を得ることができるのです。これこそが神様を信じる者が神の国で新たに神様の恵みを経験することであると言えるでしょう。