今日の「神殿から商人を追い出す」と題された話はある意味、イエス様に相応しくない行為です。本来なら記録に遺しておきたくはないしょうが、それがあるということはそこに深い意味があるからこそ敢えて載せたということです。
さて話は「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスは(が)エルサレムへ上って行かれた」ところ(2:13)、「神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった」ことから始まります(2:14)。境内の中で生贄としての捧げ物が売られていることに何の問題はありません。しかし注意しなければならないのは「両替をしている者たち」と訳された言葉です。これをこれを現代と同じ意味で考えてはなりません。ここでの「両替をしている者たち」とは信仰心に付け込んで商品の販売によってかなりの儲けを得ていたと考えられます。つまり暴利を貪る輩たちであったと考えられます。つまり神殿の境内が彼等の巣窟となっていたのです。「商売」と訳されていますが(2:16)、あたかも現代の悪徳商法なようなものであったことでしょう。
イエス様は「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し(た)」とあります(2:15)。それ程までにイエス様にとって両替人や商売人たちがしていることは耐え難かったのでしょう。なぜなら公然に悪行のようなことがそこで行われていたからです。ではその「悪行」 ・・・ なぜイエス様がそのようなことをなさったのかと言えば、彼等が明らかに神様の御旨に反することをしていたからであると言えます。律法によれば、
あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない(レビ19:35)。
とあります。ヨハネでの「両替人」は“小銭にくずす”を語源とします。神殿の境内で奉納物を購入するためには両替をしなければなりませんでした。なぜならイエス様の時代にローマ帝国内で流通していた貨幣には皇帝の顔を刻まれていたからです。ローマ皇帝を神として崇めるのが帝国の決まり事であったことから、このような通貨が神殿内で流通することはユダヤ人たちにとっては偶像礼拝擬きとして決して為されなかったと考えられます。神殿の境内での悪行が横行することにイエス様は憤りを感じられたのでしょう。
神殿の境内での商いを営む者たちはまさにアモスの預言にあるように、
エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう(アモス8:5d)。
といったことをしていたと考えられます。つまり通常よりも割高のレートで換金していたり、市場よりも高値で取引がなされていたということが容易に想像できます。
イエス様の行為に「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」とあります(2:17)。これは詩編の
あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています(詩編69:10)。
を踏まえたものであると考えます。しかしここだけを読んでもおそらく弟子たちが何を思ったのかは分からないでしょう。引用した箇所の前には、
わたしはあなたゆえに嘲られ/顔は屈辱に覆われています(詩編69:8)。
とあります。ここでの「わたし」にイエス様を読み込めます。そして「あなた」とは神様のことです。これを踏まえるとイエス様が言われた「わたしの父の家を商売の家としてはならない」の意味がはっきりと分かるのではないでしょうか(2:16c)。
確かにイエス様の行為は怒りに任せた行為であったことは否めません。しかしその背景には神殿とは神様がおられる場所であるという強い思いがあったのです。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼んでいます(2:16c)。そもそも神様の御前にあってあらゆる罪は受け入れられません。ところが神様の御前で律法に反していることを知りながら、あたかも神様への背信が公然と行われていたのです。それゆえに神の独り子であるイエス様はそれを赦すことができなかったのでしょう。なぜなら先程引用した詩編の直前に、
万軍の主、わたしの神よ/あなたに望みをおく人々が/わたしを恥としませんように。イスラエルの神よ/あなたを求める人々が/わたしを屈辱としませんように(詩編69:7)。
とあるからです。つまり神殿の境内でなされていたこととは、神の独り子であるイエス様を嘲り、イエス様を信じる者が御自分を恥とし、屈辱を感じさせるものにも等しいということなのです。父の独り子を恥とする者は父なる神様に対しても同じようなことをする輩でもあります。それゆえにイエス様は神殿の境内で暴言や暴虐をはたらかれたのではないでしょうか。