十字架上でイエス様を罵った犯罪人に対してもう一人は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と彼を諫めます(23:41)。この二人が対照的に扱われていることよって何が意味されているのかを考えることが読み解きであると言えるでしょう。そこで「報いを受けている」と訳されている表現に着目したいと思います。この内容を考えると箴言が思い起こされます(箴言11:31)。そこには、
神に従う人がこの地上で報われるというなら/神に逆らう者、罪を犯す者が/報いを受けるのは当然だ(箴言11:31)。
とあります。日本語訳から考えるともう一人の犯罪人の言葉とぴったりなのですが、原語では表現が異なります。直訳すると“正しい者が地上で報われる、だから罪人や犯罪人もまた(しかり)”といった感じになります。イエス様に悪態をついた者は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と明らかに自らの死を目前にして自暴自棄になって言葉を発します(23:39)。これによって彼は神様とイエス様を信じていない者であることを際立たせていると考えられます。
上記で引用した箴言を踏まえれば、暴言を諫めたもう一人の犯罪人は自分の罪を認め、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」という言葉を口にしています(ルカ23:41a)。また、イエス様が救い主であることを理解したからこそ「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という言葉が口から出たと思われます(ルカ23:42)。そこには何かしかの悔恨や悔い改めがあったのかも知れません。彼の言葉はシラ書の、
お前が苦難に遭うとき、/主は、その心遣いを思い出してくださる。お前の罪は、晴れた日の霜のように/解け去るであろう(シラ3:15)。
を下敷きにしたものと思われます。この犯罪者はシラ書の言葉を思い起こし、慰めを感じていたとも考えられます。また福音記者ルカがこの言葉を彼の口に上らせたすれば、彼は最期になってイエス様をメシアであると信じたということ、また復活されたイエス様が語られた「罪の赦しを得させる悔い改めが - あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことの先取りとなった人物であるということが織り込まれていると言えるでしょう(24:47参照)。
なぜ人間の罪が「晴れた日の霜のように/解け去る」のでしょうか(シラ3:15b)。この犯罪人が口にした「御国」とは神の国のことです(ルカ23:42)。神の御許では罪ある者は存在し得ません。それを考えると彼は罪の赦しを得たということになります。このように考えるとルカ福音書のみに二人の犯罪人とイエス様との遣り取りが見られる理由が浮かび上がってきます。
知恵の書には、
神を信じない者の希望は、風に運ばれるもみ殻、/嵐に吹き散らされる消えやすい泡、/風に吹き流される煙、一夜だけの客の思い出、/このように彼らの希望は過ぎ去って行く(知恵5:14)。
しかし、神に従う人は永遠に生きる。主から報いを受け、/いと高き方の配慮をいただく(知恵5:15)。
とあります。この件を踏まえているからこそ、イエス様は片方の犯罪人の「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という言葉に対して、「『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と」の応えたのではないでしょうか(ルカ23:42-43)。つまり二人の犯罪人を対照化させた理由をここに見出せるということです。
イエス様が言われた「楽園」とは神の国のことであり(ルカ23:43)、そこは「アブラハムのすぐそば」であると言えます(ルカ16:22)。他の翻訳では「アブラハムのふところ」と訳されています。直訳すれば“アブラハムの胸・上着の懐”といったような意味になります。つまり背中とは反対の位置関係に存在するのですから、その者の重要性を意味すると言えるでしょう。聖書的には義人の住む場所のことであると考えられています。
そこは人間の努力によって辿り着ける場所ではありません。神様が導いてくださるところです。これが上に引用したように「いと高き方の配慮をいただく」ことであると言えるでしょう(知恵5:15)。ここに神様を信じる者が永遠に生きる理由があり、またその報いがあると言えます。これに対して神様を信じない者の希望は脆くも儚く過ぎ去って行く非常に虚しいものであるということが表現されているのではないでしょうか(知恵5:14参照)。
今回の話を教義的側面から補足というかたちで以下にまとめておきました。話の内容を理解するためにも、また話自体の重要性に鑑み、参考にして頂ければ幸いです。
十字架上の犯罪人が神の国に受け入れてもらえる理由を教義的に考えるならカトリックに於ける「義化」にそれが表れています。義化とは人間が根本的に聖化されるという教えです。これは人間が神様によって外的・表面的に義とされるのではなく、真に神の命に招かれ、その聖性に参与できるということを意味します。つまり人間はたとえその途上にあっても聖化されることになるのです。これに対してプロテスタントにはキリストを信じる罪人を神が無償で義と認めてくださるという義認の教義があります。この理解に於いて人間は信仰によって義とされるものの罪人であることには変わりがないことになります。
人間は罪をもったままでは神の国に受け入れられることはありません。しかし創造主である神様は愛によって人間を創られました。であれば御自分の御許に罪人を招くために神様は赦しを与えてくださいます。つまり生前の罪を問わず、御自分の前にあって義・正しい人としてくださるのです。まさにイエス様の「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という言葉は今回の場面に具体的に表れていると考えられるのではないでしょうか(ルカ5:32)。