イエス様の誕生の次第は「主の天使が(ヨセフの)夢に現われて言った」ことから始まります。このことは、
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである(マタイ1:20)。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ(1:24)、
という件から明白です。ヨセフの心情を察すれば夢を通じた神様からの託宣を受けたとはいえ、マリアの懐胎を考えれば男性として、また神様を信じる者としても受け入れ難く、簡単には赦せないような複雑な心境だったことでしょう。この「受け入れ難い」「赦せない」という感情を考えると創世記に於けるヤコブとラバンの話が思い起こされます。ここでも夢での話が関係します。そこには、
その夜夢の中で神は、アラム人ラバンのもとに来て言われた。「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい」(創世記31:24)
とあります。このことがイエス様の誕生物語と果たしてどのように関係するのでしょうか。聖書は聖書として読んでみることが大切なのです。
ラバンはヤコブの叔父に当たります。彼は甥にあたるヤコブ(後にイスラエルと呼ばれるようになった人物)を都合の良いように利用しました。また自分の娘ラケルに対する彼の恋心に付け込んで、結婚の条件として7年間働かせたにもかからわず(創世記29:18参照)、偽って姉娘のレアを与えたのです(創世記29:23参照)。それによりラケルを妻とする条件としてさらに7年間仕えさせました(創世記29:27参照)。
さて「ラケルがヨセフを産んだころ」(創世記30:25)、ヤコブはラバンに帰郷の申し出をしたものの、受け入れられませんでした。結果としてヤコブの家族は彼が見た夢の中での神の御使いのお告げに従ってラバンのもとを逃げ出したのです(創世記31:11-13参照)。それを知った使いの者たちは彼等を追いかけ、遂に追いつきました。その夜、ラバンの夢の中で神様が語った言葉が先程、引用したものです(創世記31:24)。ここで神様はラバンがヤコブを非難すること許さず、完全に赦しを与えるようにと諭されています。神様は人間として受け入れ難く、赦せないことであっても、それを受け入れ、赦すように教え諭しているのかも知れません。
マタイに於けるイエス様の誕生の話でも夢に現われた天使の言葉がヨセフの心を動かし、「縁を切ろう決心」したことを改め(マタイ1:19)、主の天使の言葉通りに「恐れずに妻マリアを迎え入れ」ました(1:20b)。確かに主の天使は「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と言われたものの(1:20c)、それを信じたとしてもヨセフはマリアを妻とすることを拒否しようしたにちがいありません。聖霊によって産まれる神様の子供を養育する責任を担う勇気が誰にあるというのでしょうか。しかし主の天使の言葉は嘗て神様がラバンに語られたように人間として受け入れ難く、赦せない事実を受け入れ、赦すように語っているのです。神様からすればヨセフには生来、神様を信じ、「受け入れ難い」「赦せない」といった思いを信仰によって克服する力があることを御存知だったと言えるでしょう。それは神様がマリア様をイエス様の母親として選んだことと同じかも知れません。このように考えると福音記者マタイはヤコブとラバンの話を下敷きにして主の天使を通じた神様の愛と赦し、そして神様御自身の導きがこの家族の上にあるということを語ろうとされたのではないでしょうか。
今日の福音の結びには「ヨセフは眠りから覚めると」とありました(1:24)。この言葉によってヨセフは身体的だけではなく、人間として新しい使命に目覚めたと考えることができるのではないでしょうか。またこの表現はやはり創世記に於けるヤコブの言葉を思い起こされてくれます。そこには「ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。』」とあります(創世記28:16)。ヤコブはある場所で夢を見ます。その中で、
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない(創世記28:15)。
と神様から語られます。この言葉を聞いてヤコブは目覚めました。これを踏まえれば「ヨセフが眠りから覚める」という表現をもって、神様はヨセフが何処に行っても守ってくれ、最後にはご自分の国、即ち、神の国に迎え入れてくださる」ということが織り込まれているとも考えられます。このように考えるとマタイのみに聖家族がエジプトに避難し、その後、そこから帰国したという記述が見られることも納得できます。