イエス様の誕生の次第についてルカ福音書の以下の節を考えてみましょう。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた(2:8)。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた(2:9)。
とあります。ここで「野宿をしながら」と訳されていますが、この単語は新約聖書を通じてここだけにしか使われていません。ということは福音記者ルカ独自の理解が込められていると考えられるでしょう。この言葉は野や畑といった一般的な“土地”、また建物や森がない場所、また“庭”“庭園”“定住した住まい”を意味する言葉が元になっていると考えられることもあります。“このようなところにいない”という意味から“(外で)野宿する”という意味をもつようになったものと想像されます。この言葉によって表現されている“夜を戸外で過ごす”という意味合いはネヘミヤの預言が思い起こされます(ネヘミヤ13:20)。そこには、
そのため、取り引きする人やあらゆるものを売る人が、エルサレムの外で夜を過ごすことも一度ならずあった(ネヘミヤ13:20)。
とあります。この節が果たしてどのような関係をもつのでしょうか。
引用した節を理解するために古代イスラエル史を極簡単に説明しておきます。バビロニアを征服し、イスラエルやユダまでも手中に収めたペルシア人は騒乱や暴動の原因を無秩序な状況や外圧による秩序から芽生えるものと考えました。このため従属する諸民族へは彼等の伝統に根ざした固有性に適合する秩序を与える政策をその一環としました。このためネヘミヤが派遣されたのです。彼はイスラエルが独立した行政権をもつ固有の州となるために、その条件ともなる城壁によって守られた固有の首都をもつ必要性を感じていました。バビロン捕囚によって当時のエルサレムは廃墟と化し、防衛施設も破壊されていました。この惨状の克服がネヘミヤの課題であったと言えるでしょう。
このような中にあってユダヤ人の秩序、即ち、律法の回復を図る過程で生じた出来事が引用した箇所です。ネヘミヤは改革を行う中で律法に反して安息日に労働したり、商売したりする者たちがいたことから、「ユダの貴族を責め - なんという悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか」と彼等を口頭で責めるだけではなく(ネヘミヤ13:19)、安息日規定を守らせるために実力行使に出たというわけです。
ところで「羊飼い」と聞くと牧歌的でお気楽な印象を持たれるかも知れません。しかし当時のユダヤ人にあって彼等は律法に反する罪人の代表格として蔑まれていました。なぜなら彼等は仕事上、規定通りの礼拝に参加することができなかったからです。その上、生活面から考えても聖書に触れる機会もなく、律法すら知らない底下層階級に属する者たちとして蔑視されていたようです。また献金するほどのお金を持ち合わせていなかったことは容易に想像できます。
確かに聖書では牧者と羊の関係が神と民との関係によって美しく譬えられていることもあります(詩編23:1, 80:1;ヨハネ21:15-17;Ⅰペテロ5:2-4)。実にイエス様も御自身を良い羊飼いに譬えて語られています(ヨハネ10:11)。これは羊が動物として非常に愚かで、迷いやすく、生きる上でも導く者が必要であるという一面に着目したに過ぎません(民数記27:16-17)。そのような羊飼いたちに天使たちは最初にイエス様の誕生を告げ、その喜びを主の栄光を照らし出すことによって表わしました。なぜ彼等だったのかという理由を考えていきましょう。
さて「周りを照らす」と訳された言葉も新約聖書を通じてここだけで使われています。そこでこの言葉を“照らす”“火を灯す”という意味で考えるとイザヤの一節が思い浮かびます。そこには、
起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く(イザヤ60:1)。
とあります。これは「栄光と救いの到来」と題された中の冒頭の言葉です。ここでの「あなた」とは前章に「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると/主は言われる」とあることから、シオンの民、即ち、イスラエル全体のことであると考えられます(イザヤ59:20)。引用したイザヤ書での“昇った「光」”…イスラエルの民の上に輝く主の栄光にイエス様を読み込むことができます。イザヤの、
見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる(イザヤ60:2)。
国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む(イザヤ60:3)。
という節はまさにイエス様によって始まった新しい時代の到来を預言したものと言えるではないでしょうか。
イエス様の誕生は誰もよりも先に天使たちによって羊飼いたちに告げられました。彼等は律法を守ることができずに蔑視され、民衆は彼等を差別することによってあたかも自分たちの状態がより良いものであることを無理矢理納得させていたのかも知れません。羊飼いたちはそのような職に就かなければ生きていくことができなかったのです。どのようなかたちであれ、住む家を持ち、とりあえず食べる物があった人たちであっても、その極小さなことに満足を見出さなければ生きる希望を失くしてしまうかのような現実があったと思われます。その小さな者たちの中の最も小さな者にも与えられる喜びこそ御降誕 … イエス様がこの世に誕生されたことなのかも知れません。
今、羊飼いたちが野宿をしていた場所のように私たちの心を真っ暗な状態、日常から離れた状態にするのなら、また心を静めイエス様が今日お産まれになったことを考えるのなら「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照」らしてくださるかも知れません。当然のことながらその光を恐れることはありません。イエス様がどのような方であるのかを分かっている者たちにとって、イエス様の御降誕はまさに救いの光なのです。