聖家族がエジプトに逃避するにあたっても夢が関連します。現実問題としてヘロデ大王は残虐であり、彼なら「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」ことくらいはやりかねないと思われたことでしょう(2:16b)。彼は猜疑心が強く、自分の息子でさえ優秀であれば、やがて地位を脅かされることを恐れるがあまりに殺害してまったようです。ところが当時の歴史書*にはこの大事件が見られないことから事実性は疑わしいと言えます。しかし歴史的に考えるとヘロデは「大王」と呼ばれるのに相応しい政治的手腕を発揮したことを忘れてはなりません。
とにかく主の天使は夢で「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」と告げました(2:20b)。ここで主の天使の言葉は創世記を思い起こされてくれます(出エジプト記4:19)。そこには、
主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」(出エジプト4:19)
とあります。これがどのように関係するのでしょうか。
* 政治家であり歴史家でもあるユダヤ人フラヴィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』のこと
引用した節を理解するために前提となるお話をしておきます。モーセは自分の召命にあたってその役割を果たすに相応しくないことを神様に伝えます。しかし神様はモーセが持つ杖が蛇になったり、元に戻ったり、健康な手に重い皮膚病が現われたり、それが癒されたりといった御業を見せます(出エジプト4:2-7)。こうしたことを通じて神様は「たとえ、彼ら(イスラエルの民)があなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう」と力強くモーセの味方であることを語り、彼に出エジプトの導き役を担わせようとします。それでもモーセは自分に弁が立たないことを理由に神様の申し出に合意しませんでした(出エジプト4:10参照)。これに対して遂に神様は怒り、兄弟アロンに言葉を託すことを命じ、モーセを出エジプトの主導者としたのです。実に出エジプト記での神様の言葉をマタイ福音書では天使が下敷きにしていることは明らかです*。
* 類似する言葉や反対の表現が見られるということ。
今日の福音箇所は神様や天使といった人間を超越する存在の夢によるお告げに従ったという共通点を見出せます。おそらく戸惑いと不安をもちながらも彼等はそれを受け入れたことでしょう。お告げによる導きは決して平坦なものではなく、苦労が絶えませんでした。このことは彼等にとって意外なことだったかも知れません。自ら選んだ道ならまだしも、神様の導きによるものであるのなら物事が順調に進んでいくかのように思われるのは当然のことです。では彼等の耐え忍んだ苦しみや苦悩はなぜ必要だったのでしょうか。それは神様の御心が成就するために人間は苦しまなければならないことがあるということです。
神の国は神様が一方的に与えてくださるものではありません。人間は何もしなくて良い、ただその時を待てば良いということはないのです。神様の人間に対する愛に応える人間の神様への愛、即ち、神への愛と隣人愛の実践が神の国の実現には必要になります。そのために神様やイエス様を信じる者には苦悩が様々なかたちで付き纏うのです。しかしこれらの苦しみをイエス様は十字架によって担い、贖ってくださったのではないでしょうか。