八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である(2:21)。
と、今日の話は結ばれています。男の子が誕生した場合、八日目に割礼を施すのは律法で明記されています(創世記17:10, 12; 21:4;レビ12:3)。出エジプトにあたって荒れ野を彷徨った40年の間、イスラエルの民は子供たちに割礼を施しませんでした。このためモーセの後継者であるヨシュアは約束の地に入った時、神様が命じられた通り民に割礼を施したのです(ヨシュア5:2-9参照)。彼によれば出エジプト後に荒れ野で生まれた者は、誰一人として割礼を受けていなかったことが死を招いた原因であったのです。こうした歴史を踏まえ割礼は神様から選ばれた民のしるしであり、誇りとなっていったのです。
「幼子はイエスと名付けられた」とありますが、イエスはヘブライ語ではヨシュアです。この名前には「主は救い」という意味があります。ということはヨシュア = イエスという名前には神様の救いが漠然としていた時代から神の独り子が救い主として現れ、それが新しい時代の始まりとなったということが込められていると考えられます。
ところでイエスと「名付けられた」(2:21a)、また大天使が「示された(名)」とありますが(2:21b)、これらは原語では同じであり、それが繰り返されています。このような箇所を旧約聖書に求めると創世記に行き着きます。そこには、
神は彼に言われた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」神はこうして、彼をイスラエルと名付けられた(創世記35:10)。
とあります。これに続いて「神は、また彼に言われた。「わたしは全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから/一つの国民、いや多くの国民の群れが起こり/あなたの腰から王たちが出る」とあります(創世記35:11)。つまり人間を超える存在から「名付けられた」ということをもって、その者を中心として後の時代への発展が約束されるということです。事実、生前のイエス様は十字架上で亡くなられましたが、復活を通じて全世界に信じる者が広がっています。とにかく創世記を踏まえて福音記者ルカはこの言葉を使ったのではないかと考えられます。やはり「旧約と新約は一つの聖書である」ということがこうした箇所からも窺えるかも知れません。
またイザヤには、
島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び/母の腹にあるわたしの名を呼ばれた(イザヤ49:1)。
とあります。ここでの「わたしを呼び」「わたしの名を呼ばれた」では先程と同じ動詞が使われています。「わたし」とは預言者イザヤのことではなく、イスラエルの民のことです。また「島々」は終末の到来を描写する際に使われます(イザヤ41:1, 5; 42:4, 10, 12; 51:5, 18; 60:9; 66:19等、参照)。そして「遠い国々」によって“この地上に生きるすべての人間”を指しているものと思われます。また「聞け」という言葉をもってイエス様が語られる言葉は神様を信じる民にとって非常に重要な戒めであり、教えでもあるということです。であれば神様は御自分を信じない異邦の民も聞き従えと命じられていると考えられます。まさにシメオンが語った通りイエス様は「異邦人を照らす啓示の光」と言えます(2:32)。また「母の胎」「母の腹」にある「わたし」と語られているように神様にとっては同胞であろうが異邦人であろうが、まさに一人ひとりが大切な存在なのです。