主日の福音

2026年1月11日 【主の洗礼マタイ3:13-17】

ヨルダン川で洗礼を授けていた洗礼者ヨハネはイエス様が洗礼を受けるために自分のところに来たことに驚き、それを思いとどまらせようとしました(3:14参照)。しかしイエス様は御自分がヨハネから洗礼を授かることは「正しいこと」です、それゆえに「止めないでほしい」と言われたことからその通りにしました(3:15bcd)。このイエス様の言葉を考えてみましょう。

「止めないでほしい」と訳された表現は、原語では“放っておく”“そのままにしておく”“赦・許す”を意味する言葉が命令形の能動態で使われています。イエス様が洗礼を受けに来た次第を考えると詩編が思い浮かびます。

(3:15bcd)。このイエス様の言葉を考えてみましょう。

そこには、

わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました(詩編32:5)。

とあります。神の独り子であるイエスにはもちろん罪も咎もありません。しかしそのような方であっても洗礼を受けるということをもって神様を信じて生きようとするのなら洗礼を受ける必要性があることを象徴していると思えます。それはヨハネの言葉にあるように天の国に入るためなのです。

イエス様は洗礼を受けることを「我々にふさわしいことです」と言われました(3:15c)。福音書を通じてここでしか使われていない「ふさわしい」という言葉は詩編を思い起こさせてくれます。そこには、

主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り(詩編93:5)。

とあります。この節を踏まえるとイエス様の言う通りヨハネが洗礼をイエス様に授けることは神様の定めであるということです。ちなみに「定め」と訳されていますが、ヘブライ語聖書の原語では“集団”“群れ”を意味する言葉が使われています。しかし七十人訳聖書では“証”となっていることから、理解を促すためにこちらを選んだのでしょう*。またヘブライ語で「神殿」は原語では“家”“場所”、尊厳は“聖”“聖別したもの”という意味があります。直訳すると“聖なることはあなたの住まいに相応ふさわしい”となります。これは神の独り子であるものの人間として生きるがゆえにヨハネから授かる洗礼はイエス様に必要であったということなのでしょう。しかしヨハネはイエス様が神様に等しい存在であること理解していたからこそ洗礼を授けることを拒んだのかも知れません。

* עֵדָה 集団、群れ ⇒ μαρτύριον 証、証明、証拠 / Thy testimonies are made very sure: holiness becomes thine house, O Lord, for ever.(LXE)

洗礼者ヨハネはその出で立ちから預言者エリヤを彷彿させてくれます(列王記下1:8;マタイ3:4)。マラキの預言には「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります(マラキ3:23)。福音記者マタイはこの節を踏まえ、エリヤにヨハネを当てはめているのかも知れません。

洗礼者ヨハネは最後の預言者です。神の独り子であるイエス様が現われたのですから、神様の言葉を預かる預言者という役割は終わりを告げました。このことは時代の移り変わり、即ち、イエス様によって新しい時代になったことを意味します。また「ヨハネはイエスの言われるとおりにした」とあります(3:15c)。これは原語ではイエス様がヨハネに語った「止めないでほしい」という言葉と同じです*。この言葉で話の内容が挟まれていることに着目すると福音記者マタイの意図が見えて来るのではないでしょうか。マタイは神の独り子であるイエス様がヨハネから洗礼を受けたことは神様が認めたことであり、神様がそれをお赦しになられたということを織り込んでいるのと思われます。イエス様がヨハネから洗礼を授かることは相応ふさわしいことだったのです。

* 原語では双方ともに「許す」「赦す」を意味する言葉が使われている。

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