今日の福音で「そしてヨハネは証しした」と書かれています(1:32a)。この言葉から申命記が思い起こされます。そこには、
もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる(申命記8:19)。
とあります。ここで「証言する」と訳された言葉がそれにあたります。ヨハネは続く節で「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」と語りました(1:33)。申命記を踏まえるとイエス様を信じないのであればそれは偶像礼拝擬きのことであり、「あなたたちは必ず滅びる」ということを言わんとしていると考えられるのではないでしょうか。それゆえにヨハネは「だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」と話を結んでいると思われます(1:34b)。この「証しした」という言葉で話の内容が挟まれていることからも、その内容の重要性が窺えます。この点に着目したいと思います。
出エジプトにあたってモーセは民に、
今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる(申命記8:1)。
と断言しました。神様は民に苦しみを通じて彼等の信仰を精錬し、与えられた戒めを守れるかどうかを試されたということです(申命記8:2参照)。しかしそれだけではなく生きる糧としてマンナを与えました(申命記8:3参照)。このように何らかの目的をもって信じて生き抜くということは常に困難なものです。
出エジプトの目的地が「約束の土地」であることに対してイエス様の導き先は神の国です。そのためにイエス様は自らを「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われたのです(ヨハネ6:35)。つまり出エジプト同様に目的地が分からないのなら、日々の命の糧となる命の源である食料を補償する責任が導き手にはあるということです。そこでイエス様は「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである」とも言われたのかも知れません(ヨハネ6:47-48)。
さて、洗礼者ヨハネは、
わたしは、“霊”が鳩のように天から降って …、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、…その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。(1:33)。
と証しした、とあります。この「霊が降る」との表現はイザヤの預言を思い起こさせてくれます。そこには、
あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます(イザヤ26:19)。
とあります。この節は「神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる」から始まります(イザヤ26:7)。ここでの「平ら」「まっすぐにされる」という言葉からマルコやルカ福音書の「その道筋をまっすぐにせよ」(マルコ1:3b)、また「曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり」が思い起こされます(ルカ3:5b)。同じイザヤの言葉を通じてここに「死者が命を得」ること、即ち、永遠の命を読み込むことができると思われます(イザヤ40:3-5参照)。神様の霊が降った者こそ永遠の命である復活を証しできる人物なのです。