今日の箇所で「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった」とありますが(4:18a)、この「ほとり」という言葉は詩編を思い起こさせてくれます。そこには、
その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす(詩編1:3)。
とあります。これを踏まえるとイエス様がこれから選ばれる漁師たちは、やがてイエス様の御言葉と御業を自らが証しをし、それが広がるようになるということが含まれていると考えられるかも知れません。「ときが巡り来れば実を結び」という言葉は季節の移り変わりのことだけではなく、イエス様の復活を体験する「とき」であるとも考えられます。であればその「とき」にこそ彼等が見聞きした生前のイエス様の福音の種が芽を出し、実を結び、繁栄をもらたすようになるということが織り込まれていると言えるのではないでしょうか。であればイエス様がガリラヤ湖の近辺を歩いていたことは弟子に相応しい人物をお探しになっていたということかも知れません。
「ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき」とは何でもない状況描写のように思われます(4:18)。しかし先ほど述べたように福音記者マタイは詩編を踏まえて(詩編1:3)、弟子として選んだ漁師たちが将来、福音を告げ知らせることを織り込んでいると考えることもできます。
また同じ「ほとり」という言葉は外典であるシラ書で、
わたしの語ることを聞け、敬虔な子らよ、/流れのほとりに育つばらのように、若枝を出せ(シラ39:13)。
という節に見られます。これを踏まえると先ほどと同じ意味合いで弟子として選んだ漁師たちは、やがて新しいイエス様の弟子たちを増やしていくということを織り込んでいるとも考えられます。であれば“その時が来るまでは分からない”ということでもあります。彼等がイエス様の御言葉と御業の意味を理解できるのは復活体験を通じてのことです。この経験を通じて彼等はイエス様を伝える最も「敬虔な子ら」と呼ばれるようになり(シラ39:13)、彼等の福音宣教は「繁栄をもたらす」ことになるのです(詩編1:3)。このようなことを福音記者マタイはイエス様が「ほとりを歩いておられた」という表現に込めているのではないでしょうか。