主日の福音

2026年2月8日 【年間第五主日マタイ5:13-16】

今日の福音でイエス様は、

山の上にある町は、隠れることができない(5:14b)。
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである(5:15)。

と言われました。この言葉から“重要なものや光は上にあるからこそ、その意味を果たす”といった意味合いではないかと考えられます。確かに主なる神様は地上を越えた私たちの上におられます。このことは詩編の、

主よ、あなたの慈しみが/我らの上にあるように/主を待ち望む我らの上に(詩編33:22)。

という詩から明らかです。またイザヤの預言に、

主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。主は天をベールのように広げ、天幕のように張り/その上に御座を置かれる(イザヤ40:22)。

とあります。ここで神様は自分たち人間の遥か上におられることが強調されています。これは神様とは人間が造る物、即ち、偶像ではないということを表していると思われます。神様はご利益を得るための対象ではないのです。このような意味で考えればイエス様の言葉は十分に納得がいくのではないでしょうか。

確かに神様は人間の如何いかなる行動や思いに気付いておられないわけがありません。たとえ悪い行いによる罰が報いとして与えられなかったとしても、悔い改めを忍耐強く待ってくださっているということです。このことは詩編に、

主よ、あなたは情け深い神/憐れみに富み、忍耐強く/慈しみとまことに満ちておられる(詩編86:15)。

うたわれている通りです。神様はそのような高みからすべてを照らしてくださっているのです。であればイエス様が言われた「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」という言葉とぴったり結び付きます(5:16)。しかし視点を変えて直訳すると“そのようにあなたたちの光は人々の前で照らしなさい”となります。

これ以降は少し文法的な内容に踏み込むことから読み飛ばしてくださってもかまいません。確かに原語では他動詞である「照らす」の目的語が「あなたちの光」であるとして訳されています。しかし「光」は中性名詞であることから、その活用から主格でも目的格でも同じかたちです。このことから主語を「光」として“あなたたちの光は照らしなさい”とも訳することもできるのです。

旧約聖書を通じて神様が光として民を照らすといった表現は頻繁に使われます。それらの中でもサムエル記の言葉に着目してみましょう。そこには、

主よ、あなたはわたしのともし火/主はわたしの闇を照らしてくださる(Ⅱサムエル22:29)。

とあります。ここは神様が光を照らし、不安等によって生じるダビデの心の闇を払ってくださるということが表現されています。実際、彼はあらゆる敵から神様によって守られ、救われ、そして勝利を得ました(Ⅱサムエル22:1-51参照)。しかし光を受けるダビデがその光を遮ってしまったこともあったかも知れません。意外に自らが障害物となって神様からの光を遮っていることに気付かないものです。気付けないからこそ神様に心を向けて祈ることが求められるのです。

イエス様の言葉を考えるにあたって一般的に「光」を目的語として理解されます。確かに神様やイエス様は人間を照らし、導いてくださいます。しかしサムエル記を踏まえるとイエス様が言われた「光」を主語として捉えることもできます。つまり神様や御自分から既に受けている“あなたがたの光は人々の前に輝かしなさい”と語られていると考えることもできるのではないでしょうか。

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