主日の福音

2026年2月22日  【四旬節第一主日マタイ4:1-11】

イエス様は誘惑を試みるサタンに対して、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある」と言われました(4:10bc)。ペトロが信仰を言い表わす場面でもイエス様はペトロにも「サタン、引き下がれ」と言われましたが(マタイ16:23)、ペトロに向かっては“私の後ろに”という言葉が訳出しされていません。つまりイエス様はペトロに“(もし)私の後ろに引き下がらなかったら、(お前は)サタン(になってしまうのだ)”と言っていると考えられます。これに対して目の前のサタンにはただ「退け・引き下がれ」と命じられています。

この後、イエス様は申命記を引用して語られていると考えられます。そこには、

あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい(申命記6:13)。

とあります。一読すればすぐに分かるようにイエス様の言葉には「誓いなさい」という言葉が抜けています。確かにサタンを前にして神の御名によって誓えなどとは命じられないでしょう。しかしマタイの他の箇所でイエス様は「誓ってはならない」と語られました(5:3-36)。この箇所との整合性のために敢えて省いたのかも知れません。

イエス様が申命記に基づき語った「拝み」という言葉はイザヤの預言を思い起こさせてくれます。そこには、

あなたを責める者の手にわたしはそれを置く。彼らはあなたに言った。「ひれ伏せ、踏み越えて行くから」と。あなたは背中を地面のように、通りのようにして/踏み越える者にまかせた(イザヤ51:23)。

とあります。ここで「ひれ伏せ」がそれにあたります。引用した節はバビロン捕囚を前提としていることから、捕囚民たちはここで「ひれ伏せ」という言葉で表現されている通りに、まさに自分の背中を踏み越えさせるために寝そべらされた、つまり屈辱的な行為を受けていたと考えることができるでしょう。その「屈辱」とは彼等の神様を礼拝できないことです。バビロニアには彼等の神マルドゥックがいたことから、捕囚民はその神を礼拝し続けなければならなかったのです。その度ごとに自分たちの神様がマルドゥックに屈服したのかと疑問を持ち続けていたことでしょう。しかし彼等の心の根底にはいつかは主なる神様が救ってくださるという期待があったはずです。そもそもバビロン捕囚とは神様を信じない民を戒めるために神様の御計画のうちにあることだったのです。

最後にイエス様が申命記に基づき語った「仕え」という言葉を考えると出エジプト記が思い起こされます。そこには、

神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」(出エジプト記3:12)

とあります。これを踏まえると「神に仕える」ということは、神様のそばにいつも共にいるということです。しかしユダヤの歴史を振り返れば神様の御旨に反することの繰り返しでした。私たちが目にする神様は遠く離れた異国の山にいるのではなく、日々、目にする十字架に架けられています。

天使がイエス様に仕えるようになる場面は申命記の一節を思い起こしてくれます。そこには、

あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい(申命記11:16)。

とあります。神様が命じられるように、私たちが「ひたすら(神様の教えに)聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば」(申命記11:13)、イエス様と心を一つにして、他の神々ではなく真の神様に仕えることができるでしょう。

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