福音書によればユダヤ人の間では「祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた」ようです(27:15)。これは現代の日本で言えば恩赦のようなものかも知れません。またユダヤ人たちにとってみれば、悔い改めと神様へと立ち帰るための神の憐れみの実践でもあるとも言えるでしょう。その対象となったのが「バラバ・イエスという評判の囚人」でした(27:16)。
確かに彼についてはヨハネ福音書では「バラバは強盗であった」(18:40)。マルコによれば「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に」いた人物(マルコ15:7)、そしてルカによれば「このバラバは、都に起こった暴動と殺人の廉で投獄されていた」と囚人となった理由が書かれています(ルカ23:19)。内容だけを読めば犯罪人として投獄されるべき人物と言えます。
しかし「祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した」とあること、またどちらかの釈放を尋ねるピラトに群衆はバラバの名前を挙げたことから(27:20-21)、意外にも彼を擁護、もしくは彼に同調する者たちがいたと考えられます。もしかしたら彼はローマ帝国の支配に武力をもって抵抗する集団の指導者的な立場の人物であったのかも知れません。ユダヤ人の歴史に於いてマカバイ戦争のことを考えるとそれ程までに大規模なものではなかったとしても、小競り合いがローマ帝国とユダヤ人たちとの間で起こっていたことは時代からも想像できます。
なぜバラバの人物像が気になるかと言えば「評判の」という形容詞が付いていることです。この言葉は福音書ではここだけで、また新約聖書を通じてもロマ書に見られるだけの特徴的なものです(ロマ16:7)。この言葉は箴言を思い起こさせてくれます。そこには、
若者の心には無知がつきもの。これを遠ざけるのは諭しの鞭(箴言22:15)。
とあります。ここで「つきもの」と訳された言葉がそれにあたるのですが、この言葉の原語には“謀反を企てる”“同盟を結ぶ”という意味もあります。これを踏まえバラバは徒党を組んで武力行使によって何らかの訴えをローマ帝国にしていたのではないかと推測することができるのです。このような輩なのですから「評判の」という言葉によって福音書記者マタイは何かを伝えようとしていたのではないでしょうか。
ピラトは集まった人たちに向かって(27:17a)、「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」と尋ねしました(27:17b)。ピラトは彼の妻が見た夢の話もあってか(27:19)、「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」という言葉からもわかるようにイエスを明らかに釈放しようとしています。このことは同じイエスという名前に俗称のバラバ、また尊称としてのメシアを付けていることからも分かります。ここで「釈放(する)」と訳された言葉は哀歌を思い起こさせてくれます。そこには、
わたしたちは自らの道を探し求めて/主に立ち帰ろう(哀歌3:40)。
とあります。ここで「立ち帰(る)」と訳された言葉がそれにあたります。ということはこの言葉が死と復活の隠喩になっているのかも知れません。主なる神様によって起こされるのが復活です。であれば復活の前には神様に出会うことになります。また復活を通じて神の国で永遠の安息を得ることこそ福音であり、ユダヤの民が歩むべき道なのです。マタイはこのようなことを踏まえてこの場面を書いているのではないでしょうか。
ここで「ねたみ」と訳された言葉は知恵の書を思い起こさせてくれます。そこには、
悪魔のねたみによって死がこの世に入り、/悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである(知恵2:24)。
とあります。つまりイエス様を亡き者にしようする者たちは悪魔の妬みに憑りつかれたようなものであり、やがて彼等自身が悪魔の仲間として死を味わうことになるということでしょう。
こうしたことから「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って」「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と言ったと考えられます(27:24)。ピラトの言葉と行いは彼がイエス様の死とは関係がなく、潔白であることをユダヤ人の伝統に従って公然と示したものと思われます(申命記21:6-8;詩編26:6)。それゆえに「その血の責任は、我々と子孫にある」と「民はこぞって答えた」のかも知れません(27:25)。ここで「血の責任」という言葉はヨシュア記を思い起こさせてくれます(ヨシュア21:9)。であれば“責任をすべて子々孫々と自分たちが負う”ということの故事成語であると考えられます。