イエス様は「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と言われました(ルカ16:9)。一般的な常識に反し、道徳としても到底、受け入れられないこの言葉は何を意味しているのでしょうか。この良く分からないことを追求することが読み解きとなります。この話の結びは「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」となっています(16:13)。留意すべきはこれらに見られる「富」と訳された言葉です。この言葉は原語ではギリシア語ではなくアラム語です。この言葉は新約聖書を通じてルカのこの箇所で3回、並行箇所であるマタイで1回しか使われていないルカに特徴的な単語です(マタイ6:24)。わざわざアラム語が使われていることによってこの表現に諺や格言のような雰囲気が感じられます。であればこの結論部分に冒頭の「不正にまみれた富」が結び付けられていると考えられます。
この話の結びでは「仕える」と訳される言葉を繰り返されています。この言葉は詩編が思い起こさせてくれます。そこには、
主の万軍よ、主をたたえよ/御もとに仕え、御旨を果たすものよ(詩編103:21)。
とあります。ここで「主の万軍」とありますが、主なる神は万軍を率いるかのような恐るべき存在であるというのが旧約の伝統です。であれば「主の万軍」とはそのような威厳をもつ神様を守り、その御旨を実現するために仕える兵士たちといった意味になるでしょう。つまり神様を信じる者すべてのことであり、信仰を鼓舞させる表現でもあると考えられます。この詩編を踏まえれば神の僕として、主ではなく富に執着する者は相応しくないということになります。この結論に至るにあたってイエス様は「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」と言われました(ルカ16:10)。これは冒頭の言葉とはまったく異なり、道徳的にも信仰的にも十分に納得できます。しかしこれが神様との関係で聖書的にどのような意味なのかよく分かりません。分からないからこそイエス様の真意を考えなければならないのです。
今日の話では「忠実な」という形容詞が繰り返し使われていますが、この対義語は訳の通り「不忠実な」です。しかし原語ではその言葉は使われていません。ギリシア語でも日本語と同じように単語の前に否定辞を付ければ対義語になりますが、その言葉が使われていないのです。神様との関係について語られているのですから、「忠実な」に否定辞を付けた「不信仰な」が使われるのが妥当だと思われます。しかしここで使われている「不忠実な」を意味する単語にも原語では“神の義・正しさを基準にして”といった意味合いが含まれていることから話の筋は通ります。
また、これ以外にも「ごく小さな事」という形容詞も繰り返し使われています。そこで考えてみたいのはこの言葉と「忠実な」という形容詞が一緒に使われている箇所がルカの中で他に使われていないかということです。
こうして探してみると「主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう』」というイエス様が語られた譬え話の中で見られます(ルカ19:17)。これは福音書を通じてルカにしか見られません。ということはこの言葉との繋がりがあるのではないかと想像されるのです。
イエス様は小さな事に忠実であることは「支配権」を委ねられることであると言われました。ここでの「支配権」は“~してもよい”を語源にした言葉です。であれば小さな事に忠実な者は大きな事、即ち、神様や神様のことばを証しすることを通じて神の国で自由に生きられるといったことを意味しているのかも知れません*。また、同じ意味合いでイエス様は「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」と言われたとも考えられます(16:11)。
一読すると非常に不可解ですが、ここでの「不正にまみれた」は原語では“正しい”に否定辞が付いた単語です。この言葉には“神の正しさを基準にして”ということが前提となります。であればその「基準」は律法であり神様の御心です。またこの言葉は受動的であれば“信頼に耐えうる”“忠実な”、能動的であれば“信じている”“信仰をもっている”といった意味になります。このように考えると“律法や神様の御心にそぐわない富に対して信仰をもっている者、即ち、そのような財産を受け入れない者こそが神の国に招かれる”ということであると考えられるかも知れません。
*)ルカによればこの箇所は「お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」となっている(19:17)。ここで聖書に於ける「10」という数は「神・人のことばによる証し」を意味することから上述のように理解できるのではないだろうか。
イエス様が語られた「不正にまみれた富で」のその「富」とは律法に反する富、即ち、神様の御心にそぐわない方法で得た財産であると言えます。考えてみたいのは訳出しされている国文法に於ける助詞の「で」です。原語では前置詞が使われています。これは訳として「~から」「~によって」「~で」と訳されるように、“出発点”“行為者”“手段”を表します。その他、用例は少ないものの“(源泉・根本原理等)に従って”“~を基本原理として”といった意味合いもあります。
また「金がなくなったとき」と言葉が続いていますが(16:9a)、原語には「金」という目的語がありません。この動詞には“尽きる”“無くなる”“(人が)死ぬ”という意味があります。このことに留意して直訳すれば“(人生が)終わるとき”、また“(自分が)死んだとき”と訳すこともできるでしょう。
神様に仕えるというのならそのような生き方をしなければなりません。それは生きている間に必要とする財産ではなく、死を超えたところにある永遠を求めることでもあると言えるでしょう。しかしそのような生き方を貫くことは難しものです。ですからイエス様はたとえを通じてこのことを語られたのではないでしょうか。