今日の話は「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」という言葉から始まります(13:1)。イエス様が弟子たちの「足を洗う」にあたって、その理由ともなることが書かれていることからこの節は注目されるべきであると思われます。
ここで「移る」と訳された言葉に着目してみたいと思います。この言葉はヨハネ福音書の中では3回使われ、原語では“立ち去る”を意味します。しかし同じ意味合いの言葉は他にあるものの、この言葉が使われていることが非常に意味深長に感じられます(5:24; 7:3)。
ヨハネに於ける用例から考えるとこの言葉はこの世から神様の御許へと立ち去って行くといった意味合いであると言えます。つまり地上から天上へ行くということです。どういうわけかこのような意味をもつ言葉はヘブライ語には見当たりません。
旧約聖書を通じて父なる神との交わりについては幾度となく表現されているのですから、“天に行く”といった類の言葉があってもよさそうな気がします。こうした点から第二正典(旧約聖書続編)に目を向ける必要があるのです。
第二正典(旧約聖書続編)にある「知恵の書」を読むと、
知恵はひとりであってもすべてができ、/自らは変わらずにすべてを新たにし、/世々にわたって清い魂に移り住み、/神の友と預言者とを育成する(知恵7:27)。
という節に目が留まります。ここで「清い魂に移り住み」の「移り」が先程のヨハネの「移る」と同じ言葉です。この節の「知恵」に見られるように神の独り子であるイエス様は「ひとりであってもすべてができ(る)」、即ち、出来ないことが何もないことは御業がそれを証ししてます。
復活とは神様が御自身を信じる者たちの「清い魂に移り住(む)」こと、即ち、その者たちとともに「世々にわたって」生き続けるということを意味しているように思えます。このことはまさに「神の友と預言者とを育成する」ことでもあるとも考えられるでしょう。であればこれから起こるイエス様の御受難と死と復活が意味することが集約されているように思えます。つまりイエス様がこれから為す弟子たちの足を洗うという行為 … まさに奴隷の仕事を通じて神様の友、また神様の言葉を預かる者となれるということです。これはイエス様の弟子としての福音宣教のありかたを表しているとも言えるかも知れません。
今日の言葉の結びは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」となっています。ここで「愛し抜かれた」とあるのは意訳です。直訳では“世の終わりまで愛した”と継続を含まない時制で表現されています。また同じ時制で「父のもとへ移る御自分の時が来た」と書かれています。ということは同じことが二度と起こることはないということです。であればイエス様から愛された者はどのように生きるべきなのかをイエス様は弟子たちに諭そうとされたのではないでしょうか。
今日の1節にあるように神様とイエス様を信じる者が天に向かうことはただ一度だけです。そのことを悟っているのであれば、イエス様を信じる者としてどのように生きるべきかが問われているとも言えます。「弟子の足を洗う」とは御受難を前にしてイエス様が嘗て語った「互いに愛し合う」ことの具体的な実践だけではありません(13:34-35; 15:12, 17)。奴隷の奉仕をするほどまでに隣人を愛すること … 信じられないような愛や憐れみを尽くすことが地上から神様である父のもとに移る条件になるということが「知恵の書」を踏まえて語られているのではないでしょうか。