主日の福音

2026年5月3日 【復活節第五主日 ヨハネ14:1-12】

今日の福音でイエス様は御自分を道であり、真理であると言われました(14:6)。第二正典(旧約聖書続編)である「シラ書」には、

これらすべてにまして、いと高き方に求めよ。お前が、真理の道を正しく歩めることを(シラ37:15)。

とあります。おそらくイエス様はこの節を踏まえ「いと高き方(神様)に求める」ことによって御自身が道であり真理であることが理解できると言われたと思われます。

しかしそのように生きようとしても自分を取り巻く社会環境や様々な価値観、また生活様式、即ち、時代によってイエス様の福音を見失ってしまうものです。であれば自分の力のみでイエス様の「真理の道」を歩くことは難しいということです。それゆえに意識的、且つ積極的にイエス様を求め、イエス様を通ろうとしなければならないのです。

「真理」とは原語では“光によって照らされる”という言葉を語源としています。ヨハネによる福音書を通じてイエス様は光にたとえられます。であればイエス様がいなければ人間は真理の道を理解できないと言えます。真理は発見されるものであり、人間が造りだすものではありません。既に神様やイエス様から与えられているものなのです。

ヨハネによる福音書冒頭の「ロゴス賛歌」には「それ(言が肉となって人間の間に宿られたこと)は父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります(1:14b)。イエス様は「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」と言われます(12:47)。であればイエス様は自らが父なる神の独り子としての栄光であり、真理であることを通じて「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と語られていると考えられます(14:6c)。

先程引用した「シラ書」を踏まえればイエス様が語る真理の道は人間が一人で歩くには難しいものです。その道を歩き続けるためイエス様は「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」と言われたのです(12:46)。

もし福音を通じてイエス様を通り、御父の御許みもとに行こうとするのなら、また御言葉と御業を信じ抜こうとするのなら、日々の霊的な糧として命のパンであるイエス様が必要になります。このことを「このパンを食べる者は永遠に生きる」と言われたのではないでしょうか(6:58c)。

繰り返すように「真理」とは“光によって照らされる”という言葉を語源としています。ヨハネによる福音書を通じてイエス様は光にたとえられます。であればイエス様がいなければ人間は神の栄光や真理を分からないため、その道を辿たどれないということです。真理は発見されるものであり、人間が造りだすものではありません。既に神様から与えられ、この地上で見出されるものなのです。

別の箇所でイエス様は「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と語られています(8:32)。聖書的に考えると真理は神様によってイエス様に啓示されています。つまりイエス様の御言葉と御業、即ち、福音を理解することによって人間は神様の御心や御旨でもある真理と自由を理解することができるのです。これらを得ることにより何をしても、何を考えても神様から離れることはないのです。

確かに道徳的にも常識的にも真理や自由を考えることはできます。しかしその結論がたとえ福音と似たようなものであったしてもイエス様の言葉とは異なります。イエス様の言葉はイエス様の時代の中からつむぎ出された福音です。神様の真理に触れ、まことの自由に生きるために福音を学ぶ必要があるのです。

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