今日の箇所は「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り」という言葉から始まります(18:12)。ここでの「捕らえて縛り」を直訳すると“イエスを逮捕した。そして彼を縛った”となります。
まず「捕えて」と訳された言葉は詩編を思い起こさせてくれます。そこには、
言っています/「神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕えよう。彼を助ける者はもういない」と(詩編71:11)。
とあります。これは神様を信頼する者たちに対する敵の言葉を表現しています。ここで「捕えよう」と訳されていますが原語では、“捕えよ”と命令形で書かれています。つまりこの箇所を踏まえてユダヤ人の下役たちは上役の命令に従い詩編を実現させてしまったということです。そればかりか、イエス様を追い詰めた者たちの心には“イエスがいつも言う神は奴を助けることはしない。なぜなら「神は彼を捨て去った」からだ”という確信があったものと思われます。
引用した詩編の前には「神よ、わたしを遠く離れないでください。わたしの神よ、今すぐわたしをお助けください」とあります(詩編71:10)。この詩がこの時のイエス様の心境であったかも知れません。
次に「縛り」と訳された言葉はやはり詩編を思い起こさせてくれます。そこには、
虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち(詩編146:7)
とありますが、ここでの「捕らわれ人」がそれにあたります。この詩は「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ」から始まるのですから(詩編146:1)、イエス様が置かれている状況とはまったく異なります。
他の詩編の箇所には
主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい(詩編33:1)
とあります。これらのことを踏まえるとイエス様は神の正しさ生きる者であったことが強調されているようにも思えます。とはいうものの先に引用した詩編と同じように(詩編71:10)、イエス様の心の中では「わたしの賛美する神よ/どうか、黙していないでください」という詩も繰り返されていたかも知れません(詩編109:1)。
とにかく先程引用した詩編にあるようにイエス様は虐げられている人に御言葉を語り、御業を為され、供食物語に於いてパンを与えました(詩編146:7)。しかし今は死刑に処せられる囚人として縛り上げられているのです。
イエス様が捕らえられ、縛られて引き渡されていったことは、そこに集まっていた民衆にとって聖書が預言した救い主が本当に到来するのかという疑念を大きく膨らませたことでしょう。また結局は現実が神様の御心を凌駕するとさえ思えたのではないでしょうか。
「一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り」(18:12)という言葉はこれから起こることになるイエス様の御受難と死を想起させてくれます。詩編を踏まえるのなら神様はイエス様を見捨てたかのように思えてしまいます。また誰もイエス様を助けることはないということの先取りのようにも考えられるでしょう。それは御言葉を語り、御業を現し、そして罪に捕らわれている者を解放するための福音宣教が終わり告げたかのようにも思えてしまうものです。
しかし、これらは復活の前振りのようなものです。神の栄光を信じるのであれば、その証として信じる者には受けるべき何らかの苦難があるということが今日の言葉に織り込まれているのかも知れません。まさに詩編に見られるように神様はイエス様に決して「墓穴」を見せることも、そこに下らせることもないのです(詩編16:10; 30:4)。