「マグダラのマリアともう一人マリアが墓を見に行った」ところ、そこにいた天使は彼女たちに「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」と言われました(28:6)。この表現は旧約聖書の二箇所を思い起こさせてくれます。そこには、
ヨシャファトが、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問う(た)・尋ね(た)(列王記上22:7;歴代誌下18:6)。
とあります。
この箇所を理解するために古代イスラエル史を簡単にさらっておきましょう。時は北イスラエル王国の王がアハブ、南ユダ王国の王がヨシャファトの頃の話です。アハブの父であり王でもあったオムリは分裂したイスラエルとユダとの間の敵対関係を終結させるためにユダと協調を保つことを心がけました。このような関係の中にあってイスラエルとアラムとの間でギレアデの町ラモテの所有権をめぐる紛争が生じました。アハブは奪われたラモテの奪還を目的としてヨシャファトに参戦を求めました(列王記上22:4;歴代誌下18:3)。このことに対しての返答が引用した節です。
アハブがヨシャファトに協力を求めることは両国の関係から当然のことです。しかしヨシャファトはアハブに「『まず主の言葉を求めてください』と言った」とあります(列王記上22:5;歴代誌下18:4)。
つまりこの戦いにユダ王国が参加することは神様の御心に適うものであるか否を確認したかったのです。この要求に応じてアハブは自国の預言者たちを集め、彼等の言葉を聞くと皆が戦いに参加することを進言しました。実に集められた預言者とは王の顔色を窺う御用学者のようなものたちであったのです。つまりヨシャファトから見れば彼等は偽預言者たちだったということです。イエス様は偽預言者や神様を騙る者ではありません。このことを踏まえて天使は「あの方は、ここにはおられない」と言われたのでしょう。
確かにイエス様は三日目に御自分が復活なさることを幾度となく語られていました(16:1; 17:23; 20:19)。しかしここでの三日目とは単なる日付の問題ではなく、神様の御業が現れるのは旧約時代に於いて三日目であると考えられていたことを踏まえています(ホセア6:2)。であれば天使の語るイエス様の復活とは神様の御業であるということです。
「復活」を意味する直接的な言葉は旧約聖書に見られないものの詩編には、
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず(詩編16:10)
主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました(詩編30:4)。
とあります。つまりイエス様の復活がこれらの詩編を証ししたということでもあります。これらを踏まえ天使は「遺体の置いてあった場所を見なさい」という言葉と共に遺体のないことの意味を婦人たちに考えさせたと思われます(28:6c)。ここで「遺体」と訳された言葉は原語では“横たわっていた”となっています。だからこそ神様が起こされたのです。これが復活です。であれば復活とは神様によって起こされることであると言えます。
確かにイエス様は十字架上で死にました。しかしそれは横たわっていたに過ぎないことから、天使たちは「(ガリラヤで)お目にかかれる」と弟子たちに言いなさいと彼女たちに命じられたのでしょう(28:7)。今日の天使の言葉はイエスの死と復活によって神様の救いの御業が現わされたという信仰の核心を語っているのではないでしょうか。