主日の福音

2026年5月17日 【主の昇天 マタイ28:16-20】

今日の福音でイエス様は福音や復活を宣べ伝えることにひるむ弟子たちを励ますかのように、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と「イエスは、近寄って来て言われた」とあります(28:18)。確かにかつてイエス様は「十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」ことがあります(10:1)。このことから考えても「神の独り子」であるイエス様には神様に等しい力があることが分かります。ちなみにこの「権能」という言葉はマタイでは2回しか使われていません。語源的には“~してもよい”ということですから、大きな意味合いが込められていると思われます。

ところでこのイエス様の言動はダニエルの預言で彼が見た幻視の場面を思い出させてくれます。そこには、

夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み(ダニエル7:13)
権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない(ダニエル7:14)。

とあります。これがイエス様の言葉とどのように関係するのでしょうか。

「日の老いたる者」という言葉はダニエルの預言の中でしか見られない言葉です(ダニエル7:9, 13, 22)。これは詩編90全般に見られるように創造主である神様は時間と空間を超越した存在であり、この地上の支配者でもあるということです。それゆえに「あなたの僕らが御業を仰ぎ/子らもあなたの威光を仰ぐことができますように」との祈りがあるのです(詩編90:116)。

イエス様の言葉はダニエルからの引用を踏まえて「人の子」、即ち、「神の独り子」である御自分が父である神様の御許に進み、「権威、威光、王権を受けた」ことを読み込めます。これを踏まえイエス様を知るようになった者は神様とイエス様の僕となり、御言葉と御業、即ち、福音ばかりではなく、神様とイエス様の威光を仰ぐようになるのです。

しかし弟子たちは復活されたイエス様を見ても、命じられたことを聞いても不安を感じたことでしょう。御受難の際にイエス様を見捨てた彼等の罪意識は拭い去れなかったに違いありません。まさにイエス様が語られたよう「心は燃えても、肉体は弱い」のです(26:41b)。しかし受胎告知の場面で天使が語ったようにイエス様は「自分の民を罪から救う」方なのです(マタイ1:21c)。

確かにイエス様の言葉通り天の国はイエス様と共に近づきました(3:2; 4:17)。しかし誰もが天の国に入れるわけではありません(5:20; 7:21)。天の国に入る前には裁きがあります。

その裁きについてはイザヤの預言の「諸国民の審判」と題された中に、

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える(イザヤ41:10)。

とあります。確かに生きるという現実に於いて罪を犯すことは避けられません。

しかし罪の赦しを求め、悔い改めることこそ神様の御旨と言えます。神様の裁きは恐ろしく感じられるものですが、イザヤにあるように神様はその力ある右の手で御自分の御許みもとに招いてくださいます。つまり神様は民に助けと救いを与え、そして支えてくださるのです。

イエス様は罪人と呼ばれる者たちと食事をしていることを批判する宗教的権威者に「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と言われました(9:12b)。まさにイエス様は「人の子は、失われたものを救うために来た」(18:11)、即ち、神様から遣わされたのです。

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