復活したイエス様が戸に鍵が掛けられていた家に現われたということは現実的には考えられません。しかしこのことがこの世的な存在と復活のそれとの違いを表わしています。つまり時間と空間を越えるものが神の命であり、その命と人間的な肉体を兼ね備えたものが復活の体であるということです。この復活の命をイエス様が証しされたことから弟子たちは生前のイエス様の御言葉や御業を問い直し、イエス様の福音を宣教する力を得たと考えられます。
重要なことはイエス様が「真ん中に立(った)」ということです。この言葉はエゼキエルの預言を思い起こさせてくれます。そこには、
主なる神はこう言われる。シドンよ、わたしはお前に立ち向かう。わたしの栄光がお前の真ん中で現される。わたしはその中で裁きを行い/自分の聖なることを示す。そのとき彼らは/わたしが主であることを知るようになる(エゼキエル28:22)。
とあります。ここに表されているように「真ん中」とは物理的なことでなく、神様の栄光が現れることを表現していると考えられます。であれば十字架上で死んだと思われたイエス様は神様の栄光を受けて弟子たちの真ん中に立っているということを読み込むことができるのではないでしょうか。
さて引用したエゼキエルの歴史的な背景をいつものように極簡単にお話ししておきます。シドンとは「アシェルの人々の部族が氏族ごとに受け継いだ嗣業の土地であり、町村である」と言われているものの(ヨシュア19:28)、現実にはこのシドンの神々にイスラエルの民は仕えていたと考えられています(士師記10:6)。
イエス様の時代になるとローマ帝国の支配によって皇帝を神として礼拝することを強いられていました。しかしイエス様の復活によって神様の救いが明らかになったのですから、これにより神様がイエス様と共に礼拝される時代が真に始まったということでもあります。それはイエス様が福音として生前に語っていた神の国が実現しようとしているという希望を復活に見出されるということでもあります。
洗礼者ヨハネは「あなたがたの中にはあなたがたの知らない方がおられる」と語りました(1:26)。直訳すると“あなたたちの真ん中にあなたたちの知らなかった人が既に立っている”となります。つまり“真ん中に立つ”という表現は物理的なことでなく、イエス様が言われた「平和」を象徴しているのではないでしょうか(20:19, 21, 26)。
「真ん中に立(つ)」とは生前のイエス様の御言葉から考えれば「互いに愛し合うこと」を言い換えたものであるといえるかも知れません(13:34; 15:15, 17)。「平和」の原語には争いに対する平和のことだけではなく、“融和”“和睦”といった意味もあります。
イエス様は「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われ(20:21c)、彼等に息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」とも言われました(20:22b)。
弟子たちといえば「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」という記述から(20:19a)、イエス様の福音を宣教できるような状況ではなかったことは明らかです。イエス様の十字架上での死の苦しみが彼等を怖気づかせるには十分であったに違いありません。またイエス様の死によってイエス様が生前に語られていた御言葉や実際に為されていた御業といったことは頭からすべて抜け落ちていたと言えるかも知れません。それほどの恐怖に襲われていたと言えるでしょう。このような状況下でイエス様は彼等の真ん中に立ち「『あなたがたに平和があるように』と言われた」のです(20:19b, 26b)。
イエス様は弟子たちに「息を吹きかけ(られました)」(20:22a)。この言葉は新約聖書を通じてヨハネにしか使われていません。であればここに大きな意味があると考えられます。この言葉は創世記にも見られます。そこには、
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(創世記2:7)。
とあります。これを踏まえると神様が「命の息」を人間に吹き入れたようにイエス様は新しい命を弟子たちに与えたことを表現していると思われます。ヘブライ語で「息」は“霊”“息吹(呼吸)”といった命の根源をも表現する言葉です。だからこそイエス様は弟子たちに「息を吹きかけて」、「聖霊を受けなさい」と言われたと考えられます(2:22)。
弟子たちは新しい命を得たことから死を恐れず福音宣教に赴いた、即ち、怯えて家に閉じ籠もっていた状態から勇気をもって外に出られるようになったのです。このことは人間が新しくなったことでもあると言えます。つまり復活したイエス様が彼等を宣教に駆り立てる推進力となったとも考えられるでしょう。それは彼等にとってイエス様に対する罪意識の氷解でもあったのです。