主日の福音

2026年3月1日 【四旬節第二主日マタイ17:1-9 その1】

今日の福音ではイエス様の御変容の場面やイエス様がモーセやエリヤと語り合っていたこと、そして光り輝く雲に覆われ「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた」という箇所に着目されがちです(17:5b)。これらは詩編やイザヤを引用したものと言われています(詩編2:7;イザヤ42:1)。この箇所についての解説は既に何度も聞かれてきたと思われることから、今回は省くことにします。

さて「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」とあります(17:1)。ここは何の変哲もない状況描写のように思われます。この時には特定の弟子しか連れて行かなかったのですが、その理由は残念ながら分かりません。「連れて」と訳される言葉を原語から考えても特別な理由はないように思えます。もしかしたら「ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネ」という人物に隠された何かがあるのかも知れません。これも不確かな想像に過ぎません。ではもし人物に特別な意味がないとしたら、「高い山に登られた」という一般的な言葉が重要であるということです。

ここで「(高い山に)登られた」と訳されていますが、原語を直訳すれば“導き上る”“捧げる”という意味があります。本来なら“(山に)上る”を意味する言葉が使われていてもよいはずですが、それが使われないことに何か意味があるのかも知れません。このことを考えるとマタイの意図を推測できる箇所をイザヤの預言に見出すことができます。そこには、

高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神(イザヤ40:9)

とあります。ここでの「高い山に登れ」は原語でも文字通りの意味です。また“山に登る”とはモーセがシナイ山で十戒を受けたことを彷彿させてくれます(出エジプト14:12)。つまり神様との関係に於いて重要なことが生じるという暗喩がこの言葉に込められていると言えるでしょう。引用したイザヤはバビロン捕囚からの解放が生じることについて預言者の口を通じて神様が語られたものです。まさに捕囚民にとっては恵みの言葉であったに違いありません。これが今日の箇所とどのような関係があるのか考えてみましょう。

マタイとイザヤを比較すると「高い」と訳された言葉に注目が必要です。イザヤでは現実的な高低や気持ちの高揚を意味する形容詞が使われています。しかしマタイでは神様に関して“高い”ということ、即ち、人間的な理解を超越しているといった意味の言葉が使われています。それ以外の言葉 … 「登る」「山」はイザヤと同じ意味です。ということはマタイでの「高い山」は物理的に“高い”ということではなく、神的、且つ聖なる場所を意味していると考えられます。イザヤを踏まえるとイエス様たちが高い山に登られたのは、まさに神様がいる場所の近くに行くことを象徴していると言えるでしょう。また、その場で体験したことを通じて弟子たちが恐れることなく、やがて良い知らせ、即ち、福音である神様の御旨を全イスラエルに告げるようになることが織り込まれていると考えられます。

この「良い知らせを伝える者」にイエス様を読み込めることは、イザヤの先の節を読めば明らかになります。そこには、

主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる(イザヤ40:11)。

とあります。

このように考えると「山」という聖なる場所でイエス様とモーセとエリヤが共に「語り合っていた」話の内容は、来るべき終末に於ける審判のことについてではないかと考えられます(17:3)。この「語り合っていた」と訳された言葉は、イザヤの預言を思い起こさせてくれます。そこには、

論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる(イザヤ1:18)。

とあります。これは「ユダの審判」と題された中にあります。ここに見られるように終末の審判とは断罪のことではありません。民が救われることを三人で語り合っていたと思われます。そもそも主の天使はマリア様への受胎告知にあたって、「この子は自分の民を罪から救うからである」と言われたのです(1:21b)。またイエス様御自身も「人の子は、失われたものを救うために来た」と言われています(18:11)。そのような話はこの地上での理解や価値観を越えているのですから、こうしたことが「高い山に登られた」という言葉によって表象されているのではないでしょうか。

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