イエス様は自らを神の独り子と呼ばれました(3:16a)。これはイエス様の時代に於いて決して口にしてよいことではありません。この言葉を聞いた者たちは激しい怒りを感じたことでしょう。しかしイエス様はこの言葉によって御自分を神様と同様に人間を裁く神であると同定していると言えます。それゆえに「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」と言われたのです(3:18)。因みに「御子」と訳出されていますが原語では「息子」や「子」を意味する一般的な名詞です。
イエス様の言葉から人間でもある神の独り子による「裁き」が強調されていることを読み取ることができます。確かにイエス様は世を裁くためではなく、救うために神様から遣わされたということを語られました(3:17; 12:47)。また時として「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」と裁くために世に来られたということを断言されています(9:39)。さらにイエス様は「しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく」とも言われました(5:34)。ということはイエス様が語る裁きは救いでもあると言えます。
イエス様によれば裁きと救いは二つで一つです。旧約聖書に於ける神の裁きは往々にして主に神様による断罪を意味していました。しかしイエス様を通じて裁きが救いに繋がるようになったのです。ここにイエス様が遣わされた理由とイエス様によって時代が新しくなったことを見出すことができるでしょう。イエス様が語られたように「裁く」と「救う」が同時に使われた箇所を考えるとイザヤの預言が思い起こされます。そこには、
まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる(イザヤ33:22)。
とあります。これは「主は我らの王」と題された箇所の中にある言葉です。ここにはそれまでの預言を踏まえて神様が苦難から解放してくださるという希望、また慰めが見られます。ここで語られているように主なる神は民を裁かれる方でもあり、救われる方でもあります。つまりヨハネ福音書に於けるイエス様の言葉をそのままここに重ね合わせることができるのではないでしょうか。つまり裁きと救いとは唯一の神様によってもたらされるものであり、それと同じことが神の独り子であるイエス様は為し得るのです。
イエス様は「神の独り子の名を信じていないから」救われることはないと語られました(3:18b)。「イエス」という名の原語には「主は救い」という意味があります*。このことからイエス様は人間でありながらも神の独り子であり、救い主でもあるということが込められているでしょう。ユダヤ人にとって「名」はその本性を表わすものでもあるのです。
ところで「知恵の書」(旧約聖書続編)には、
彼らは魂のない偶像に依り頼み、/不当な誓いをしても罰せられるとは思わない(知恵14:29)。
二とおりの罪のゆえに神は彼らを裁かれる。まず、偶像に依存して神のことを悪く考え、/次いで、神の清さをさげすみ、/不当にも偽って誓ったからである(知恵14:30)。
とあります。ここでは偶像礼拝に対する罪と愚かさ、またそれに対して神様からの罰が与えられることが語られています。イエス様の時代に於いても現世的なご利益を得るために異教の神を信じる者がいたと考えられます。であれば日々を生きる上で信仰が等閑にされていたことでしょう。それゆえにイエス様は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と最初に明言されたのではないでしょうか(3:16a)。* 「イエス」はヘブライ語の「ヨシュア」をギリシア語的に発音したものである。このヨシュアという名を分析すると「ホシャ(救い)+ ヤー(主)」となる。